スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

この世にあるものはあの世にすべてある

江原啓之氏はあの世の幽界にはこの世にあるものは全てあると言ってますし、

19世紀の貴族だったフランチェッツォの霊界通信ではあの世にもDVDやホームシアターシステムのようなものもあると言ってます。

また、『真相を霊視してゆっくり解説』でも、あの世にはパソコンもあると言ってました。

 

 

私はあの世は想念の世界だというので、思うだけで物事が動いたりできたりするのなら機械類はないのではないかと以前は考えてたんですが、

あの世にも機械類や家電製品のようなものもあるようですね。

 

 

というよりも、この世で発明される前にまずあの世でそれらが出来上がり、それがこの世にインスピレーションとして与えられてこの世での発明として創り出されるようです。

 

 

なので、パソコンにしてもインターネットにしても、あの世ですでに出来たものが

この世の発明家や開発者に啓示として与えられて発明開発されているのでしょう。

 

 

あの世でもインターネットは使われているのかどうか分かりませんが、

もしあの世にもあるのなら、

自分が学習研究探求して知り得た真理についての知識を、

ホームページサイトを作って発信してみたいと思ってます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

死後の認知症

『真相を霊視してゆっくり解説』のYouTube動画を見ていると、

江原啓之氏が言っていたこととして、

認知症にかかった人は亡くなったあと元に戻るのに時間がかかると言っていました。

 

死後はすぐ認知症は治ると思っていたので意外でした。

 

ただ、時間はかかるが、どんなに長くても1年くらいまでには元に戻ると言っていたので、認知症のまま他界して2年7カ月経つ母も、

もし元に戻るのに時間がかかったとしても、

今は認知症は治って完全に健康になっていることでしょう。

 

この世の人生を終えた人があの世でどういう境遇になっているのかということは

この世を生きている者には霊能者でもない限りわからないことですが、

少なくとも、真っ当な人生を生き切った人があの世で悲惨な目に遭うなどという理不尽な法則などは存在しないはずなので、

あの世のことはよくわからないながらも、真っ当な人生を生き切った母は

今はあの世で幸福な境涯になっていると思います。

 

 

スピリチュアルで言っていることは荒唐無稽なことを言っているようであっても、

合理的な法則に則った思想なので、

よほど地獄に行くような生き方をしていない限り、

恐れる必要もないと言えるでしょう。

 

 

母の心霊体験2

母は生前、霊感が強く、何回か心霊体験をしていましたが、

そこで今回は、まだ当ブログに書いてなかった話を書いておきます。

 

 

もう15年以上前の話ですが、それまで父の遺骨を納めていた納骨堂が閉鎖されることになり、

新しい納骨堂を決めるため、弟が運転する車で私と母も一緒に、

2時間くらい離れた場所にある寺院に出かけたことがありました(結局そこの納骨堂には決めませんでした)。

 

その帰りに、母方の実家の納骨堂がある寺院に参拝に行くことになり、

その前に、供え物を買うために近くのスーパーマーケットに寄りました。

 


その時の時刻は夕方5時〜6時頃で、冬なのですでに薄暗くなっていました。


私と弟で供え物の菓子を買っている間に、母は店のトイレに行ったのですが、


そこで母が変な幽霊みたいな女性に遭遇したというのです。

 

 


女子トイレは個室が2つあり、2つとも人が入っていて使用中だったので、


母は個室の前の所で待つ事にしたそうです。

 

 

個室前で待っている人は母の後ろにあと2人いたそうですが、

そのうちの1人、列の最後に並んでいて、出入り口に近い壁の隅に立っている女性が変だったというのです。

 

 


その日は寒い日だったのに、その女性は夏物の薄いシャツを着ていて、

髪は縮れた毛が長く伸びていて、水に濡れたような状態だったそうです。

 


そして俯向き加減に壁の方を半分向いて立っていて、髪を片手で掻き上げていたそうです。

その様子に不気味さを感じた母は気味悪さを紛らわそうと、

わざと大きな声で「ああ、今日は人がいっぱいだ」とか言うと、

その女性は髪を掻き上げながら、横から、チラッチラッと盗み見るような感じで母の方を見たそうなのですが、

その時見た顔は、真っ白で無表情で、

全く生気のない死人のような顔だったというのです。

 


その時、1つの個室から人が出て行ったので、

母は空いた個室に入り、用を足して個室から出ると

もうその気味悪い女性はいなかったそうです。

 

 


その時は、母が個室に入っている間に、不気味な女性はもう1つの個室に入ったのだろうと思ったそうなんですが、

母が洗面台で手を洗っている時、もう1つの個室から出てきた人は母のすぐ後ろに並んでいた人で、

さっきの不気味な女性ではなかったそうなんです。

その時は他に並んで待っている人はいなかったそうです。

 

という事は、その気味悪い女性は、生きている人間ならば、

用も足さずに出ていったか、消えたのなら幽霊だったという事になります。

 

 


その後、スーパーで買った供え物を持って寺院の納骨堂に行ったんですが、

納骨堂には他に人はいなくて、そこで参拝を済ませて帰ろうとしている時、

母が、出入り口に近いところに女性が立っているというのです。

私も弟もそのあたりを見ましたが私たちの他には誰もいないのです。

 

 

後で知ったのですが、スピリチュアルでは、

夕方以後には墓や納骨堂には行ってはいけないのだそうで、

参拝に行くなら夕方までの明るい時間に行くべきだといっています。

  

夕方以後の暗い時間帯に行くと、低級霊が活発に動きだすから、

取り憑かれたりする危険があるそうなのですが、

夕方薄暗くなって納骨堂に行ったので、

霊感の強い母に霊が見えたのかも知れないですね。

 

 

その後、帰り道の途中で割烹料亭に寄って夕食を食べたのですが、

そこでも母は幽霊らしきものに遭遇しています。

 


夕食中か夕食後に母はトイレに行ったのですが、

母がトイレから出て廊下を歩きだしたら、向こう側から仲居さんらしき女性が歩いてきたというのです。

その仲居さんは品の良さそうな中年の女性で、

盆に湯飲み茶碗を1つだけ乗せてしずしずと歩いてきたそうです。

そして、母とすれ違った後、トイレの方に行ったのだそうです。

 


母は食事の場所に戻る前にトイレの方をしばらく見ていたそうですが、

その女性は出てこなかったというのです。

 

その仲居さんらしき女性も幽霊だったのか?


第一、盆に湯飲み茶碗を乗せてトイレに入っていくというのも変です。

霊だと断定はできないですが、霊だったのかも知れないです。

 


私と弟にはまったくわかりませんでしたが、その日の母は幽霊らしきものをいくつも見たようなんです。

母は最初に行った寺院の納骨堂から霊がついてきたのかもしれないと言ってましたが、

そうかもしれないですね。

 

その人が一日中考えていることが、その人である 

 

「その人が一日中考えていることが、その人である」

 

 

これは19世紀のアメリカの思想家・哲学者エマーソンの言葉です。

 

 

人は外面だけではその人の実際の人物が分からないことが多いです。

なのでどうしても外面だけで人を判断しがちですが、

実は心の中でいつも考えていること、思っていることがその人なのだということを言っているのだそうです。

 

 

この言葉は、私がまだスピリチュアル思想に出会う以前、

成功哲学書、今でいう「引き寄せの法則」の部類に入る本を読み漁っていた頃、

それらの本によく引用されていたので知ってました。

 

 

成功哲学では成功するための方法として思考の使い方を重視していて、

常に明るく前向きに、願望が達成された姿を想念していけば

願望が叶って成功すると主張していて、

エマーソンの言葉はその思想的論拠として引用されてました。

 

 

このエマーソンの言葉は成功哲学だけでなくスピリチュアル思想にも通じる考え方だといえます。

スピリチュアルでは外面的な行為だけでなく、

口から発する言葉や心の中の考えも実際の行ないとして重視してますが、

特に心の中では、外面的な行為や口から発する言葉よりも

頻繁にさまざまな思いや思考が湧き上がっているので、

その心の中の思いというものが重要視されているのでしょう。

 

 

なので、エマーソンが言っていたように、

心の中でいつも思っていること、

いつも考えていることがその人の本質だといえるわけであり、

いつも何を考えるか、何を思っているかということが大事だといえるわけです。


 
 
スピリチュアルでは、いつも心の中で他人を見下していたり、
 
 怒りや恨み、憎しみなどの思いを持っていると、
 
 死後は地獄あるいは地獄に近い幽界の下層世界に行ってしまうと言ってますが、
 
確かに、いつも考えていること、思っていることが重要だといえるわけです。 
 

 
 

私は「その人が一日中考えていることが、その人である」という エマーソンの言葉から

 斎藤一人氏の天国言葉が重要だと思いました。
 
  

 

いつも考えていること、思っていることがその人の本質であり、

その本質である思考があの世での住む世界を决める。

 

 

そう考えると、斎藤一人氏がいっているように、

いつも天国言葉・感謝の言葉を心の中でも言い続けることが大事だと

改めて思いました。

 

 

 

死後にやっておきたいこと

以前に木内鶴彦氏の臨死体験の記事を書きましたが、

その中で、臨死体験中に過去の子どもの頃や自分の未来を見てきたという話がありますが、

ということは、我々は肉体から抜け出て霊そのものになったら、

過去や未来にも行こうと思えば行けるということになるようですね。

 

また、歴史上の人物の生涯まで見ることもできるようですが、

それができるのなら、私も寿命が尽きて肉体から抜け出たら、

あの世に帰る前にそういうことも体験してみようと思います。

 

私の場合はまず国内旅行に世界旅行はもちろん、宇宙にも行ってみたいですし、

それから自分の過去にも行ってみようと思いますし、

歴史上の人物の生涯を見るのはイエス・キリストや釈迦など、

伝説化されている偉人の実際の生涯も見てみたいです。

 

エスの生涯にしても釈迦の生涯にしても

どこまでが史実でどこまでが作り話なのかわからないので

真実が知りたいですね。

 

 

間違ったスピリチュアル観

芸能人の不可解な亡くなり方が続いてますが、

自殺を防ぐにはスピリチュアル思想をよく理解する必要があります。

 


よく自殺防止の呼びかけがテレビでも放送されていますが、

それらの呼びかけは結局唯物論の立場からであって、

唯物論の立場からの自殺防止の呼びかけには説得力がないと感じます。

 


死んだらそれで自己というものは消滅して終わりという唯物論思想には、

なぜ自殺したらいけないのかという問いに対して、

自殺を踏みとどまらせるだけの説得力がないです。

 

  
死後のことまで考察しているスピリチュアル思想でなければ

充分納得の行く答えは出せないでしょう。

 

 

ただ、スピリチュアル思想を信じていても、

間違ったスピリチュアル観を持ってしまっている人たちもいます。

 


近頃世間を騒がせた歌舞伎役者による心中事件の場合、

死んでまた生まれ変わろうといって心中を行なったということですが、

それはスピリチュアル思想を間違って理解していたから

そういう間違ったことを行なってしまったといえるでしょう。

 

 

人は死んでも生まれ変わりますが、

しかし自殺や心中を行なってしまうと、当分は生まれ変わることはできず、

地獄に堕ちるか、幽現界で苦しみの期間が続くことになります。

結局、そこで深い後悔の念に苛まれることになるということです。

 


スピリチュアル思想を見下している有識者や著名人も多いですが、

唯物論思想には、自殺にしても殺人にしても、その他犯罪にしても、

なぜそれをしてはならないのかという問いに

充分説得力のある理論がないと言えるでしょう。

 

 

 

 

現代科学は仮説にすぎない 

前回の続きです。 

木内鶴彦氏が動画で語っている話は、

現代科学に反するような内容なので

 

ぶっとんだ話だと思ったんですが、

ただ、考えてみれば、現代の科学が言っていることだから全てが正しいとか

真理だとか事実だとは言えないわけです。

 

 

たとえば、動画内で話されていることですが、

臨死体験してる間は歴史上の人物の真相も知ることができるとか

(その動画では、織田信長は実は殺されてなくて、反逆者の明智光秀と共に

インドに行き、さらにバチカンに行ったとか)、

 

宇宙の始まりはビッグバンではなく「歪」で、

渦が巻くようにしてお互いに引き付け合うようにして

宇宙が始まったとか、 

 

地球人類の祖先は実はよその天体から来た宇宙人であり、

地球人と金星人の祖先は同じだとか、

 

現代の科学からすれば一笑に付されるような内容ばかりですが、

しかし、現代科学でその全てが確実に解明されたというわけではないのです。

 

たとえば、ビッグバンは現代科学で定説とされていますが、

定説も仮説の1つに過ぎず、事実というわけではないのです。

現代科学でも近頃はビッグバン説を否定する学説も発表されています。

 

詳しくはこちら↓

 

creators.yahoo.co.jp

 

 

 

また、現代科学の進化論では人間は猿から進化したというのが定説ですが、

しかし、人間に進化したはずの猿は今でも存在し続けていますし、

それに猿から人間に進化する途中の化石も見つかっていません。  

 

 

そういうことを考えると、木内鶴彦氏が語っている内容は荒唐無稽なように見えて、

否定もできないのではないかと思います。

 

 

木内鶴彦氏の臨死体験動画

今回はユーチューブで見つけた、この動画を貼っておきます↓

 

 

彗星捜索家の木内鶴彦氏が臨死体験を語っている動画ですが、 

その中で、臨死体験中に過去の子どもの頃や自分の未来を見てきたというところは、

昔テレビで見た、ワイドショーの中の「あなたの知らない世界」というコーナーで、

再現ビデオで放送されていた話と同じだったので、

今思えば、あの体験談は木内氏の話だったんですね。

 

 

木内氏は彗星捜索家という肩書がありますが、スピリチュアリストでもあり、

この動画でもさまざまなスピリチュアルなことを語っていますが、

あまりにぶっ飛んだ話なので、すぐには信じられないようなところもあります。

 

詳しくは次回に書いていきたいと思います。

とりあえず、今回はここまでにしておきます。

 

 

www.youtube.com

ユダの福音書は真実なのか

1970年代に発見され、2006年に解析・解読が発表されたキリスト教の異端の書とされる『ユダの福音書』。

 

ユダというのはイエス・キリストの弟子の1人「イスカリオテのユダ」で、

イエス・キリストを金と引き換えに官憲に売り渡したとされる、

キリスト教では裏切り者の代名詞になっている人物として知られています。

 

ユダの福音書によると、他の福音書では裏切り者として描かれているユダが、

実は他の弟子たちよりもイエスの真の教えを理解しており、

最もイエスに信頼されていて、

「裏切り」自体もイエス・キリスト自身から指示されたものであり、

ユダはそれに忠実に従っただけだと記述されていて、

それまでの正統キリスト教に反する内容であるため、

かなり衝撃的で話題になっていました。

 

私はキリスト教徒ではありませんが、

スピリチュアル思想にも関わりがあるので、

かなり関心を持っています。

 

キリスト教福音書には、新約聖書に「マタイ」「マルコ」「ルカ」「ヨハネ」の4つの福音書がありますが、それ以外にもいくつも福音書があります。

 

新約聖書にある4つの福音書は正統キリスト教に「正典」として公式に認められたものですが、それ以外の福音書は「外典」として、正統キリスト教に認められていないものです。

 

ユダの福音書など外典福音書の多くはグノーシス派によるもので、 

正統キリスト教からは異端として排斥されてきた歴史があります。

 

グノーシス派の思想的特徴の1つに、輪廻転生(生まれ変わり)の思想があります。

 

詳しくはこちらを参考にしてください↓

https://mikiomiyamoto.bake-neko.net/karmaincarnate105.html

 

 

現在のキリスト教は輪廻転生を認めていませんが、

近代の研究によると、初期キリスト教には輪廻転生の思想があったそうで、

ローマ帝国時代に、輪廻転生説もそれを説いていたグノーシス派も異端思想として

キリスト教から排除されたということがわかっています。

 

高橋信次氏も「イエス・キリストは生まれ変わりを説いていた」と言っていました。

 

それからすると、その輪廻転生を説いていたグノーシス派によって遺されたという「ユダの福音書」は、あるいは真実なのかもしれないと思えます。

 

現在、正典とされている福音書キリスト教会に都合の良いように書かれたものらしいので、あまり信じるべき根拠はないのかもしれません。

 

ユダの福音書」の内容が正しいとすると、

イエス・キリストは自分が処刑されることがわかっていたということになります。

つまり、処刑されることを計画してこの世に生まれてきたということになります。

それは何のためなのか。その後の復活による魂の存在、魂の不死を証明するためだったのか。

そこは今のところよくわからない点です。

 

なお、「ユダの福音書」についてはこちらも参考になります↓

 

natgeo.nikkeibp.co.jp

この世とあの世の共通の真理

今回も前回の続きになります。

スピリチュアリズム普及会は釈迦が悟った内容は

物質世界での法則でしかなく、

普遍的な霊的真理ではないと言ってますが、

私はそうは言えないと思ってます。

 

 

釈迦の基本の教えとして「中道」という考え方があります。

中道とは極端に偏らない適度さやバランス、ほどほどの立場という教えになります。

 

 

釈迦の思想を中心に説いていた高橋信次氏もこの釈迦の中道を強調していて、

最もバランスのとれた、調和された状態というのが中道であり、

何事も、中道の立場で考え行なうようにと言ってました。

 

確かに、「腹八分」といわれるように、何事もほどほどにしておくのが最も快適な状態だというのは日頃の生活でも感じることです。

 

 

そしてそれはこの世の物質世界だけのことではなく、

あの世でも同じだと思えます。

 

『真相を霊視してゆっくり解説』でも、

何事も適度さ、ほどほどにしておくのが良いと言ってましたが、

あの世でも釈迦が悟った中道という法則は有効であり、

この世とあの世と共通の真理だと言えると思います。

 

 

また、スピリチュアリズムでは、実際の行動だけでなく、

言葉で言ったことでも心の中で思ったことだけでも、

実際に行なったことと同じだと言ってます。

この法則はこの世とあの世の共通の法則で、

イエス・キリストも、欲情の心で女を見るのは実際に姦淫したことと同じだと言ってます。

 

 

それについては釈迦も、身口意の三業によって言葉で言ったことも

心で思ったことであっても、

実際に行なったことと同じで、業を形成するとしており、

例えば罵詈雑言などの毒の言葉を吐けばそれは自分に返ってくると言ってます。

 

 

釈迦がこの世の物質次元に限られた現象についての法則しか悟っていなかったのなら、

言葉で言ったり心で思っただけでも業を形成するとは説かなかったはずですし、

唯物論者のような行動面だけの教えを説いていたと思います。

 

身口意の三業の教えはあの世とこの世を貫く普遍的な霊的真理だと言えますし、

それを説いていた釈迦は霊的真理を悟っていたと思われます。

そういうことからも、釈迦は霊的真理を悟ってはいないとは言えないと思ってます。

 

 

 

スピリチュアリズムの難しさ

 

前回の続きになりますが、一口にスピリチュアリズム、スピリチュアル思想といっても、さまざまな立場や考え方、捉え方があり、一括りには語れないという難しさがあります。

間違った見解もあるようなので全てを信じるということはしない方がいいようです。

 

私は「スピリチュアリズム普及会」はある程度信頼していたのですが、

近頃はやはりそのまま全てを信じるのは危険だと思うようになっています。

 

以前の記事にも書きましたが

この世では高級霊も間違う - スピリチュアルを考察するブログ)、

 

高級霊シルバーバーチの教えを啓蒙しているスピリチュアリズム普及会が、

そのシルバーバーチの教えに反して、霊能者の江原啓之氏に個人攻撃のような批判をしたこともあり、

全幅の信頼を置けるとは思えないところがあるからです。

 

確かに江原啓之氏も全知全能ではないですから、

間違っているところもあるとは思いますが、

それでも「ニセ霊能者」という言い方は言い過ぎだと思います。

 

 

また、近頃見たこちらのサイト↓

スピリチュアリズム普及会の間違った神観。 | 私のスピリチュアリズム

 

上記のサイトにもあるように、

解釈の仕方で変わってくるものです。

 

当たり前のことですが、スピリチュアリズム普及会はシルバーバーチの思想を啓蒙はしていてもシルバーバーチそのものではないので、

間違った解釈をしてしまうこともあるでしょう。

 

 

また、釈迦の思想についても、下記の記事にもありますが↓

 

釈迦とシルバーバーチの霊訓 | 私のスピリチュアリズム

 

スピリチュアリズム普及会は、釈迦の思想はこの世の物質世界に限られたものであり、

霊的真理のレベルに達していないと批判していて、釈迦を見下しているような表現をしていますが、

それに対して、上記の記事のブログ主は、

釈迦は霊的真理を探求していたことを主張しています。

つまり、釈迦は霊的真理を悟っていたと語っていた高橋信次氏と同じ立場であるわけです。

 

確かに、釈迦は弟子が霊魂は存在するのかとかあの世はあるのかなどと霊的な形而上学的な質問をしてきても、「そんな考えても分からないことは解脱には役立たないから答えない」と言って沈黙していましたが、

釈迦は霊的存在や霊的世界は「ある」とも「ない」とも言ってないだけで、

霊的真理を否定したわけではないようです。 

弟子に明確に霊的真理を説かなかったからといって、霊的真理を悟っていなかったとは言えないと思います。

 

ただ、霊能力のない私にはどの考え方が真実なのかということは分からないので、

1つの考え方だけに偏らずに、さまざまなスピリチュアル思想を総合的に判断し、

それらを平均化して思想的モデルとしていた丹波哲郎氏の立場でいく方が無難だと言えます。

 

 

 

釈迦とイエスの魂のレベルの違い

世界三大聖人といえば、「イエス・キリスト孔子、釈迦」と言われています。

確かに徳の高い人物ばかりです。

高橋信次氏も、イエス・キリストと釈迦は

同じ九次元宇宙界の、人霊として最高の魂のレベルとして、同格の位置付けをしていました。

 

私も高橋信次氏の影響を受けて、釈迦もイエスも同格のレベルの高級霊だと思っていました。

 

 

しかし、スピリチュアリストによって、高級霊霊格の位置付けには違いがあるようです。

 

高橋信次氏やGLA系ではイエスと釈迦は同格の、

人霊としては最高のレベルとしていますが、

スピリチュアリズム普及会では

エスは最高の魂のレベルだが、

釈迦の霊格はイエスよりも低く、イエスと釈迦は同格のレベルではないと主張しています。

そして、釈迦をイエスと同格の霊格だとした高橋信次氏については、

あまりに釈迦の教えに引かれすぎて間違った先入観を持ってしまったのだと言っています。

 

そこのところをスピリチュアリズム普及会のホームページから引用しておきます。

 

 

 

霊界では、イエスとシャカの霊的レベルは比較にならないものであるのは常識的なことであり、

両者を同列に置くことは大きな間違いなのです。

シャカが地上で悟った内容とは霊的なものではなく、

きわめて物質次元に限られた現象についての法則であり、

およそ普遍的な霊的真理と言えるようなものではありません。

神の存在を否定しようとしたのがシャカの悟りの実情であったし、

シャカは死後の世界や救いに関心を持つことを我執として不問に付したのです。

それでいて自ら悟りを得たと思ったことは、

明らかに錯覚だったのです。

高橋氏が掲げたような内容を、シャカが地上時代に悟ったのではありません。

 

 

確かに、『真相を霊視してゆっくり解説』でもイエス・キリストは最高の魂のレベルだと言ってました。

 

 

また、当ブログの過去の記事でも書きましたが(相曾誠治氏と中川昌蔵氏(その2))、

作家の佐藤愛子さんが本物の霊能者と認めていた相曾誠治(あいそ・せいじ)氏は

釈迦だけでなく孔子イエス・キリストも最高のレベルではないと言っていたようです。

 

過去の記事から引用

  ↓ ↓ ↓ 

 

 

相曾誠治(あいそ・せいじ)氏ですが、相曾氏の考え方には疑問に思う点もあります。

相曾氏も中川氏と同じく、高橋信次氏が表現していたあの世の次元構造を語っていたそうなんですが、

相曾氏によると、釈迦もイエス・キリスト孔子も現在五次元霊界の上の方にいて、

六次元神界を目指して修行中なのだそうです。

 

 

スピリチュアリストによって見解が異なっていて、

誰の言ってることが真実なのか分からなくなってしまいます。

 

この点については次回でももう少し深掘りして考察してみようと思います。

 

 

 

 

 

他にもいるエル・ランティ

塩川佳世という人が書いたスピリチュアル系の本を読んでいると、

田池留吉という人物が高次元意識のエル・ランティだったと書いてありました。

エル・ランティというと高橋信次氏が生前に言っていたことですが、

塩川佳世氏や田池留吉という人は「NPO法人UTAの輪」という組織に属しているようで、直接的にはGLA系とは無関係のようです。

 

 

ただ、塩川佳世氏が若い頃、GLAの研修会か講演会に参加して高橋氏の講演を聞いたということが書かれてあり、

UTAの輪での実践としても高橋氏が強調していた反省と瞑想が特徴づけられているので、高橋信次氏の思想の影響があったのは確かだと思われます。

 

 

ちなみに田池留吉氏は高橋信次氏より1歳年上で80歳代まで生存されていたようです。

生前は教育者であったということです。

 

その田池留吉氏が高次元意識のエル・ランティだったというのは

何だか唐突な感じがしますが、

そもそも、GLA系ではエル・ランティとかエル・カンターレあるいはエル・カンタラーという高次元意識があると説いていても、

他のスピリチュアリストにはそういう話は一切ないので、

私も本当にそんな高次元意識がいるのかなと思っていました。

 

スピリチュアリズム普及会の記事を見てみると、

高橋信次氏の人物や霊性を高く評価しながらも、

勘違いも多く、亡くなる直前に自らをエル・ランティだと述べたのは勘違いによるものだったと書いています。

 

確かに、スピリチュアリズム普及会が言っているように、

高橋信次氏が魂のレベルの高い人物で偉大な霊能者であっても、

この世に肉体を持って生まれてくると、全てを正しく理解し判断するというのは難しく、 

勘違いしたり間違ってしまうことも多々あるということなのでしょう。

 

そもそもエル・ランティとかエル・カンターレなどという名前の高次元意識は存在しないということなのでしょうか。

霊能力のない私には、全く分からないことです。

 

 

魂の記憶について

この世の人生を終え、霊そのものになると

顕在意識が90%以上になり、大昔の忘れていたことも思い出すということをスピリチュアル思想では聞きますが、

スピリチュアリズム普及会のサイトを見てみると、

あの世に還ると、霊として重要なことは覚えているが、

どうでもいいようなことは忘れていくと書いてました。

霊そのものになっても忘れられていく記憶があるようです。

 

 

ただ、もし霊そのものになった時、

それまでの輪廻転生で蓄積されてきた記憶を全て覚えているとしたら、

それはまた困ったことでもあると、近頃は思ってるところです。

 

 

これまでの転生の人生の中には忘れてしまいたいこともたくさんあるでしょう。

私は今回の人生でも忘れてしまいたいくらい恥ずかしい思いをしたことが何度もあり、

そういう恥ずかしい記憶や悪を行なってしまった場合の自己嫌悪の記憶というものを

いつまでも覚えているというのも辛いものです。

 

 

嫌な記憶を忘れたいのにいつまでも覚えているというのは、

拷問に掛けられているような感じがします。

それとも、幽界で現象界の垢を落として素の状態になれば、

たとえ罪の記憶であっても「そんなことがあったな」と懐かしむくらいの平静な心の状態になれるんでしょうか。

そういった細々としたことについても、近頃は知りたいと思っているところなんです。

 

 

真理から見る宗教組織

近年、カルト集団に対する批判が高まってきていますが、

スピリチュアル思想の真理観から見ると、

カルトに限らず、宗教組織そのものが真理ではないということが分かってきます。

 

 

宗教はこの世の人間が運営しているものであって

神や高級霊が直接運営しているわけではなく、

そのために、運営している人間の私利私欲などのエゴによって支配されやすいという危険が生じてしまうからです。

 

 

実際、由緒正しい伝統的な宗教であっても

その歴史においても現在でもさまざまな問題があるものです。

 

 

こちらのブログに、シルバーバーチの霊訓による

宗教についての見解が記されています。

 

muratakazuhiko.hatenablog.com

 

 

高橋信次氏はGLAという教団を創立しましたが、

神理(真理)を学ぶことを目的としたものであったそうで、

団体の運営には自身の会社の営業利益を充てるなど、

そこには私利私欲というものはなかったものと思われます

しかし、そういう純粋な思いと目的で作られた団体であっても、

高橋氏が亡くなった直後に、教義や路線の違いをめぐって混乱が起き、

会は分裂してしまっています。

 

たとえ当初は正しい思いによって創立された団体であっても、

人間が運営していく以上はその正しさを維持し続けるのは難しいようです。

 

結局、真理そのものではない宗教組織には関わらない方がよいといえるでしょう。