スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

執着から離れることは無関心になることと同じか

昔読んだある仏教学者が書いた釈迦の教えについて解説した仏教書の中に、
「釈迦は執着から離れよと説いた。執着から離れるとは無関心になることである」
と簡単に言えばこのようなことがその本に書かれてあったのですが、
そこのところに私は違和感を覚えました。

 

 

確かに釈迦の教えは執着から離れることを強調していますが、
執着から離れるということと無関心になるということが同じだということに違和感を覚えたのです。

 

 

それまで仏教学者や宗教学者、思想家が書いた釈迦の思想についての解説本をさまざま読んできましたが、
皆「釈迦の教えの核心は執着から離れるということ」だと言っていますが、
「執着から離れるとは無関心になること」だと言っているのは他にいませんでした。

 


確かに、「執着から離れるとは無関心になること」だと言われれば、
「そう言われればそうだな」と思えてきます。
しかし、何かちょっと違うような気もします。
そこのところが何かもやもやした気持ちになって近頃まで心の中にわだかまっていたのです。

 


それで、この前「生成AIにこのことを聞いてみよう。生成AIならどう答えるだろうか」
と思いついて、生成AIに聞いてみました。

 


その結果は、結論から言えば、「執着から離れるということと無関心になるということは同じではない」ということです。

 


その生成AIの答えの内容を、ちょっと長いですがここに貼り付けておきます。

 

 

↓<ここから引用>↓

結論から言えば、「執着から離れよ」と「無関心になれ」は同じ意味ではありません。
仏教の文脈で説かれる「執着を離れる」とは、対象への関心や愛情を消し去ることではなく、
対象を「こうでなければならない」「失ってはならない」と強く握りしめる心の働き(渇愛・取)を緩めることを指します。 

 

 

## 「執着」とは何か

仏教で問題とされる「執着」は、単に何かに興味がある状態ではなく、
「これが私のものだ」「これが永遠に続くべきだ」「こうあるべきだ」という強いこわばった心の姿勢です。
 例えば、家族を愛すること自体は執着ではなく、その愛が「絶対にこうでなければならず、そうでなければ自分は耐えられない」
という形に固まると苦しみが生まれます。

 


## 「無執着」と「無関心」の違い

- 無執着:対象への関心や慈しみは保ちつつ、結果や自分の思い通りにコントロールしようとする力を緩める態度。
心は「開いて」おり、必要なことは見て、聞いて、行動するが、結果や評価に振り回されない。

 

- 無関心:対象への注意や関わり自体を遮断・麻痺させる状態。
心は「閉じて」おり、見ない・聞かない・関わらない方向へ傾きやすい。

 


英語圏の仏教コミュニティでも「detachment is not indifference(無執着は無関心ではない)」と明確に区別され、
無関心は「心のオフライン化」、無執着は「執着の解放」と説明されます。

 


## 釈迦の教えの意図

釈迦が説いたのは、苦しみを生む「渇愛(たんに欲する心)」と「取(執着)」を手放すことであり、
他者や世界に対して冷たく無関心になることではありません。 
むしろ、執着を離れることで、より自由で穏やかな関係が可能になり、
「愛しながらも鎖に縛られない」生き方ができるとされます。

 


## なぜ混同されやすいか

「執着を離れよ」という表現が、「すべてを投げ捨てよ」「感情を消せ」と誤解されやすく、
結果として「無関心=悟り」という短絡的な理解が生まれることがあります。 
しかし、仏教の「手放す」は、無理に忘れたり否定したりするのではなく、
「変化を受け入れながら、それでも大切にする」という柔軟な姿勢です。

 


## 結論

「執着から離れよ」は「無関心になれ」と同じ意味にはなりません。
前者は「握りしめない自由」を指し、後者は「関わりを遮断する無反応」を指します。
釈迦の教えは、他者や世界への慈しみや関与を否定するものではなく、
むしろ、執着による苦しみから解放されることで、より深く、自由に愛し、行動できる道を示すものです。

 


<引用終わり>

 

さすが生成AIです。
私が長い間もやもやしていた違和感に対して、明確に答えてくれました。


とすると、「執着から離れるとは無関心になること」だと書いていたあの仏教学者は
釈迦の教え、仏教思想の核心がよく解っていなかったということになりそうです。

 

 

 

 

霊自身は怖い思いをしないのか

以前から思っていたことなんですが、
よく地縛霊や浮遊霊など悪霊とか低級霊と言われている霊は
廃墟とか気味悪い場所に居ついていることが多いものですが、
霊自身はそんな不気味な場所にいて怖くないのかなとふと思うことがあります。

 

確かに霊自身が不気味な場所を怖がっていたら笑い話みたいですが、
肉体から離れて霊そのものになると、怖いという気持ちがなくなるものなんでしょうか。
そこのところが不思議に思ってます。


それで思い出したのですが、スウェーデンボルグの霊界探訪記の本に
興味深い箇所があります。


スウェーデンボルグが霊界である霊に聞いた話として書かれてあるのですが、
その霊人は現世を生きている間は心霊現象に遭ったことはなく、
幽霊を見たこともなかったそうなんですが、
この世の人生が終わって霊界に来てから、
初めて悪霊と言われる恐ろしい霊に遭遇したことがあるそうなんです。


スピリチュアリズムの世界観では、死後の霊が行く幽界という世界は
自身と同じような性質の霊ばかりが集まって暮らすようになっているので、
善霊が悪霊と同じところに行くということはないですが、
スウェーデンボルグによると、幽界に行く前に、
死後の霊はあの世でまず精霊界という収容所みたいなところに一定期間滞在するということで、
その精霊界には善霊も悪霊もしばらくの間一緒に居ることになるそうなので、
悪霊を見て怖い思いをしたという霊人の話は精霊界に滞在している間の話のようです。


それにしても、自身が霊存在になったのに悪霊の姿形を見てとても怖い思いをしたということなんですが、
霊となってあの世に行っても悪霊に遭遇して怖がることもあるものなんですね。


現世で幽霊の話を聞いて怖がっている人が、この世の人生を終えて霊存在になった時に
他の悪霊などに遭遇した時どういうリアクションをするのかと考えるのも興味深いものです。

 

 

 

祖母の臨死体験

私の祖母(私の母の母親)の不思議な話について以前の記事に書きましたが、
今回も祖母についての話を書きます。


祖母は49歳で亡くなっていて、詳しい病名は忘れましたが、

突然意識を失って倒れて亡くなっています。

おそらく、脳卒中ではないかと思いますが、2回意識を失って倒れており、
2回目の時、台所で炊事をしている時に倒れ、
その時、頭を打ったようで、それが原因で亡くなっています。


1回目に倒れた時は意識が戻って回復したそうなのですが、
その時、意識が戻った祖母は「今、とても良い気持だった」と言ったそうなんです。


私が母からその話を聞いた時は何気なく聞いてたんですが、
今思えば、祖母は意識を失くしてる間、臨死体験をしてたのではないかと思えます。


母の話からはそれ以上のことは聞き出せませんでしたが、
臨死体験者の証言として、強い安らぎや幸福感、痛みからの解放という内容が多いようなので、意識を失っている間、苦しみや痛みを全く感じることなく良い気持ちの状態だったという祖母の話からすると臨死体験をしていたのではないかと感じますね。


私はスピリチュアルを信じるようになってからも、今でもまだ死への恐怖を持っているんですが、臨死体験者の証言として、死ぬ時には痛み苦しみがないということなので、
それが死に対する安心感を得られる根拠にはなりますね。

 

 

美輪明宏さんに思う

美輪明宏さんが亡くなったというニュースがありました。
報道によると、今月20日に老衰により91歳で亡くなったそうです。


私にとっては美輪明宏さんは歌手や俳優としてよりも、
霊能力者・スピリチュアリストとしての方が心に残っています。


スピリチュアル思想を知るようになって以後、
美輪明宏さんから受けた影響はかなり大きいです。


美輪さんの考え方の中で特に大きな影響を受けたのは、
宗教と信仰についてです。


美輪さんは「宗教と信仰は違う」「信仰とは、自分を神の段階にまで高めてゆく作業の事を言う」「宗教は企業である」ということを言っていました。


それまでの私は宗教イコール信仰だと思っていて、
宗教に入らなければ信仰はできないのかと考えていたんですが、
美輪さんの言葉を聞いて、別に宗教に無理して入らなくても信仰はできるのだということを知りました。

 

本質的に重要なのは信仰心であって、
宗教は謂わば信仰を助けるためのツールのようなものであるということ、
つまり信仰は真理そのものではあるが宗教は真理そのものではないということが分かって本質的なところを知ることができて良かったと思っています。

 

美輪さん自身は法華経信仰で日蓮宗の信者でしたが、
宗教宗派にこだわらない立場で、日蓮宗だけが正しいというような言い方はしてませんでした。

 

また、美輪さんが出演していたテレビ番組での人生相談などでも、
スピリチュアル的立場からの回答に心が癒されたものです。

 


『真相を霊視してゆっくり解説』の動画では、美輪さんは来世以降この世に生まれ変わる必要がないレベルになっていると言ってましたが、
確かにそうだろうと思います。


幽界を素通りして、更に上層世界とされる霊界(狭義の霊界)に一気に帰られるのではないかと思います。

 

 

 

江原氏が語る自殺の罪の重さ

前回の記事で、自殺者が全て地縛霊になったり地獄に行くというわけではないということを書きましたが、それで、「自殺しても構わない場合もあるんだ」と勘違いされても困りますので、
江原啓之氏がなぜ自殺はいけないのかと語っている動画を貼っておきます。

動画の4分20秒の辺りで、江原氏は「殺人よりも罪が重いのが自殺」と語っています。

 

 

前回も書きましたが、自殺するのは人生の困難から逃れるためという場合がほとんどだと思われますし、そのように人生を途中で放棄することは、
自分が決めてきた課題を果たさずに逃げるということになるので罪が重いということになるようです。


自分で自分を殺すことが人を殺すことよりも罪が重いというのは、
以前の私なら納得できないところでしたが、
この動画で江原氏が語っている理由を聞けばなるほどと思うところはあります。

 

人を殺すことよりも自分で自分を殺すことの方が罪が重いという発言には、

特に無神論・唯物論的な考え方の人たちから批判されそうですが、

この世的な考え方が必ずしも正しいというわけではなく、

あの世的な真理観に立ってみないと真実は分からないということもあるのだと思います。

 

以前の記事にも自殺についての考察を書きましたが、

スピリチュアルでは自分で自分を殺すのがなぜ悪なのか、

なぜ重い罪になるのかと納得できないところがありました。

 

ですが、スピリチュアル的真理観に立って考えるようになってから

真理としてそうなっているのだから、それに従うしかないというように考えるようになっています。

とにかく寿命が尽きるまで生き抜くということが真理に適った生き方になるようです。

 

 

 

自殺者の行き先についての補足

前回の続きになります。
坂本政道氏の著書に書かれてあることはほぼスピリチュアリズムと共通の内容だったと書きましたが、ただ、自殺については補足するところがありますので、
今回はその点について書いてみます。

 

スピリチュアリストの多くは自殺は絶対してはならないという立場で、

自殺しても楽になることはなく、逆にもっと苦しい状態になってしまうということを
江原啓之氏も『真相を霊視してゆっくり解説』などでも強調していますが、

坂本政道氏は、自殺したからといって、一つの決まった世界に行くわけではないと言っています。

皆が皆、地獄に堕ちるわけではなく、苦しみの状態になるわけではなく、
その時の心・感情の状態の世界に行くのであり、
ケース・バイ・ケースであり、一律に地獄のようなところに行くわけではないということを言っています。

 

死後に行く世界は「自分の心の状態・信念・感情」によって決まるとされ、
自殺者は多くの場合、「苦しみや絶望感に囚われた世界(信念体系領域・囚われの世界)」にしばらくとどまることが多いが、
しかし全てがそうではないと言っています。


その点は、高橋信次氏も同じく、自殺者が全て地獄に行くわけではないと言っていました。
要はその時の心の状態が反映されるので、
機械的に行き先が決まってしまうというわけではないということです。

 

とは言え、自殺者の多くは自分の人生から逃げる気持ちや、

最後まで課題を果たさなかったという悔いる気持ちに囚われる場合が多いと思うので、
スピリチュアリストの多くが言っているように、
自殺してはいけないとは言えます。

 

 

 

 

ヘミシンク体験と死後世界探索

このところ坂本政道氏の著書を読んでいます。
坂本政道氏はアメリカのロバート・モンローが開発したヘミシンクという音響技術による体験を日本で普及させている人物で、モンロー研究所公認のトレーナーとしてヘミシンク関連の講座やワークショップに関わり、それに関連する著作も数多く出版しています。

 

ヘミシンクというのは、左右の耳に少し違う周波数の音を聞くことで、
変性意識という深い意識に入り、脳をリラックス・瞑想状態に導くというもので、
それによって、体外離脱体験、さらには死後探索の体験も可能になると説明されています。

 

坂本政道氏の著作は新聞広告などで以前から知ってはいたのですが、
音響技術で霊能者みたいなことが体験できるのかと疑わしく思っていて、
また、そのヘミシンクで体外離脱体験、さらには死後探索の体験も可能になるとしても、
それは霊としての自分が実際に肉体から離れたり、あの世の世界に行けるという実体験ではなく、
あくまでもそのように感じるという疑似体験に過ぎないのではないかと思っていたので、
本を読んでみる気にはならないでいました。

 

ですが、近頃、特にYouTubeなどで、体外離脱・幽体離脱を意識的に行なうことができるという話に触れるにつれて、音響機器を使って意識を変えることによってそういうことが可能になるのかも知れないと考えるようになり、それでヘミシンクについて関心が高まり、
坂本政道氏の本を読んでみることにしたというわけです。

 

坂本氏の著書にはヘミシンクによるあの世の探索体験で得られた著者自身や多くの体験者の証言を基にした内容が書かれてありますが、
その内容を大まかに要約すると以下のようになります。

 

◎あの世に行くと、すでに亡くなっている親族や親しかった人と会える。

 

◎あの世にはヘルパーと呼ばれる霊たちがいる。
人が亡くなる時、あの世からすでに亡くなっている身内の霊がお迎えに来ることが多いが、
ヘルパーの霊が身内の姿で現われることもある。

また、ヘルパーは他にもイエス・キリストとか阿弥陀如来とかその他の聖者など、
亡くなる人が最もお迎えとして来て欲しい人の姿になって
あの世の世界に導いていく。

 

◎誰にもガイドがついている。
死後に光の存在に出会う経験があるが、その光の存在がガイド。

 

◎あの世には「類友原理」と「想像は創造の原理」という法則が働いている。
「類友原理」とは、同じような思考の者同士が引かれ合い、似た者同士が同じ場所に集まるという原理で、「想像は創造の原理」とは、想っていることが創造され現実化するという原理。

 

◎死後世界は大きく分けて次の3つの世界に分かれている

●光あふれる世界⇒光と喜びと安らぎのエネルギーにあふれた幸福な世界

●信念に基づく世界⇒自分の趣味・嗜好・価値観に偏った世界。宗教の盲信者・狂信者もこの世界

●囚われの世界⇒未練執着に囚われた世界

 


◎この世の人生を終えてあの世に帰った霊は、次の計画として下記の選択肢がある。

①現世にまた生まれ変わる

②「光あふれる世界」でヘルパーをやる

③地球以外の生命系に生まれ変わり、そこで別の生命体として生きる

④トータルセルフ(大きな自分)とのつながりを回復し、そこへ帰還する

 


大まかにまとめると以上のようになりますが、
表現に少し違いはあっても、スピリチュアル思想で言われている内容とほぼ同じです。

 


江原啓之氏など多くのスピリチュアリストは、
あの世ではすでに亡くなっている愛する人たちと必ず会えると言ってます。

 

特に興味深かったのは、ヘルパーの存在です。
以前のブログ記事に書きましたが、
あるスピリチュアルサイトの記事に、「あの世にはヘルパーをしている霊たちがいて、
人が現世での人生を終えてあの世に帰る時にはあの世からお迎えが来る。
そのお迎えはヘルパーが親族の姿やキリストや聖者の姿になって現われることがある」と書かれてありました。
その記事と同じことが書かれているのです。

 

また、あの世に帰った霊は次の計画として、
ヘルパーになるという選択肢があるということですが、
そのヘルパーの役割は先に書いたように、
現世の人があの世に帰る時、安心して迷わずに帰れるように
最も迎えに来て欲しいという存在の姿になって現われるということの他にも、
あの世で「光あふれる世界」に行けずに「信念に基づく世界」や
「囚われの世界」にいる霊たちを救い出すということも行なっているということで、
これは、以前の記事でも紹介した19世紀のイタリア貴族フランチェッツォが霊界通信で語っていたことと同じです。

 

以前の記事ではあの世での仕事と書きましたが、ヘルパーのことだと言えます。

フランチェッツォも魂のレベルを上げるために、あの世でヘルパーの仕事を行ない、
地獄に堕ちている霊たちを救い出すという役割を行なっていたと伝えていました。

 

それから、ガイドというのは守護霊のことであり、
次の計画の選択肢のひとつである「トータルセルフ(大きな自分)とのつながりを回復し、そこへ帰還する」とあるトータルセルフ(大きな自分)というのはグループソウルのことではないかと考えられます。

 


また、死後世界で3つの世界に分かれている世界として、
「光あふれる世界」というのは江原啓之氏などのスピリチュアリズムで言われている幽界の上層世界ではないかと思えますし、
「信念に基づく世界」と「囚われの世界」は幽界の下層世界で、

地獄か地獄に近いところに相当するのではないかと思います。


「光あふれる世界」は光と喜び安らぎに満ちた世界で天国のようにも思えますが、
その世界はしばらく滞在するだけでいつまでもいる場所ではないということなので、
スピリチュアリズムで言うところの幽界上層世界ということになるようです。

 

以上のように、スピリチュアル思想と同じようなことが書かれてあるので、
真実に近い内容ではないかと私には思えます。

 

あと、あの世に帰った霊には次の計画として、

①現世にまた生まれ変わる

②「光あふれる世界」でヘルパーをやる

③地球以外の生命系に生まれ変わり、そこで別の生命体として生きる

④トータルセルフ(大きな自分)とのつながりを回復し、そこへ帰還する

という選択肢があるということですが、
私はあの世に帰ったら、もう現世には生まれ変わりたくないので、
できれば、トータルセルフつまりグループソウルに帰還するという選択肢を選びます。


もし、それを選べない、あるいは、フランチェッツォのように、
現世での行ないについて罪を償う必要があり、
魂のレベルを上げるような善行を行わなければいけないというようなことになったら、
ヘルパーに志願して、地獄に堕ちている霊たちを救い出す任務を行なってもいいですし、
また、地球以外の生命系に生まれ変わって、そこで別の生命体として生きてもいいです。
地球以外の別の生命体というと地球人からすれば宇宙人ということになるわけで、
別の生命体として生きるというのも面白そうです。

 

このような話を信じない人には荒唐無稽なおとぎ話のように聞こえると思いますが、
私にとってはもはや実際に存在する世界と実感しています。


あの世の探索などというと、今までは特殊な霊能力者でしかできなかったことですが、
ヘミシンクという科学による音響技術によって、一般人でも実現できるようになってきたと言えるのではないかと思います。

ヘミシンク技術の普及で、あの世の存在が科学的に証明される日が来るのも夢ではないのかもしれないですね。

 

 

スピリチュアル的視点で見る事件の真相

近頃、テレビでもネット上でも報道が加熱していた事件について、
こちらの動画で江原啓之氏がスピリチュアルの視点から語っています。

 

 

 


事件を表面的に見ているだけでは分からないことが
スピリチュアルな視点から見ると解ってくることもあります。


唯物論的立場からすると江原氏が語っていることに対しては批判的な意見が出てくるとは思いますが、
この世的な視点だけでは分からないこともあるものです。


私自身もまだスピリチュアル的な視点を完全には理解できていないので、
今回のような事件を見るとついこの世的な視点での見方をしてしまうのですが、
真理から見る真相はまた違ってくるということもあるということなのでしょう。

 

 

 

輪廻転生における動物から人間への霊的進化

以前の記事にも書きましたが、スピリチュアルでは、魂は霊的な進化を続けていて、
低い段階の魂が上の段階の魂へと進化していくということであり、
具体的には、

鉱物⇒植物⇒動物⇒人間

というように、低い段階から上の段階へ進化していくということを知りました。

 

 

そして、一旦上の段階へと進化したら逆行することはなく、
下の段階に生まれ変わることはないそうなので、

人間に進化した魂は、それ以後、動物や植物などに生まれ変わることはないということを知りました。

 

 

仏教には、人間と下等生物には差別はなく、

凶悪犯罪などを犯した極悪人の来世はミミズやアメーバなどの下等生物に生まれ変わってくることもあるという説がありますが、

スピリチュアル思想では、そういうことはないということになります。

 


そうだとすると、ドラマや映画になった『私は貝になりたい』のように来世は貝に生まれ変わりたいと願っても、
人間にしか生まれ変われないということになるわけです。

 


私は昔、来世は植物とか石や岩などの鉱物に生まれ変わりたいと思っていたことがありましたが、それもできないわけです。

その当時は人間関係などに煩わしさを感じていた頃だったので、
来世生まれ変わるとしたら、植物や鉱物に生まれ変わった方が煩わしさがなく、
気楽に生きていけそうだと思っていたからなんですが、
それは願ってもできないようです。

 


また、これも以前記事に書いたと思いますが、
動物の魂は人間の魂に進化するといっても、
野生動物が人間に生まれ変わってくるということはほとんどなく、
同じ動物でもペットなど、人間と一緒に生活している動物が人間の魂に進化するのだということです。

 


江原啓之氏も言ってましたが、犬や猫などのペットは人間と一緒に生活しているうちに
人間らしさみたいなところが見られるようになるようです。

 


私は犬や猫などは飼ったことはないですが、
近頃、ペットなどの動物の笑える動画を見ていると、
犬や猫などがまるで人間みたいに振る舞っているような場面があり、
そういうところを見ていると、

もはや動物というよりも人間っぽくなっている感じを受けますし、

もう魂がかなり人間としての魂に近づいている状態ではないのかなと思ってしまいますね。

 


特に、介護犬や盲導犬、警察犬など、人間の役に立っている動物や、
また、飼い主が危険な目に遭った時に助けてくれるペットなども、

来世は必ず人間に生まれてくるのではないかと思えます。

 

 

私がスピリチュアル思想を知り始めた頃は、

人間の魂と他の生物の魂は完全に別で、

動物などが人間に生まれ変わってくることはないというように

受け取っていたのですが、

実は人間よりも下等な生物であっても、徐々に魂の進化によって

人間の魂に近づいていけるのだということを知るようになりました。

 

ただ、それでも下等な生物が人間にまで霊性進化をするためには

気が遠くなるような長い長い期間が必要になるようです。

 

 

 

エドガー・ケイシーによるイエス・キリストの真実

20世紀最大の霊能者とされるエドガー・ケイシーは、
催眠状態に入って行なう「リーディング」によって相談者の健康問題、前世、霊的助言など、
多くの相談に答えたことで知られていますが、
他にも、予言や歴史についての真実を見通す能力者としても有名です。


そのエドガー・ケイシーがイエス・キリストについて語ったという内容の動画があったので、
ここで紹介します。


この動画でエドガー・ケイシーの言葉として紹介されているのは、
正統とされるキリスト教の教義を覆すような内容になっています。


その内容というのは、
キリスト教ではイエスは人間ではなく神であるとしていますが、
エドガー・ケイシーはイエスは神ではなく人間だということ。


また、キリスト教ではイエスを唯一の神の子として規定していますが、
実はイエスだけが唯一無二の神の子というわけではなく、
全ての人間が神の子だということ。


そして、キリスト教は現在、輪廻転生を否定していますが、
死後、魂は輪廻転生を繰り返すということ。
イエスは人は生まれ変わることを説いていたが、
ローマ時代にキリスト教の公会議で否定されたということなどなど。


そのようなキリスト教の伝統的な教えを否定するような内容を語っているというのですが、
その語っている内容はスピリチュアルで言っていることと同じです。


高橋信次氏も同じことを言っていました。
「イエスは神ではなく高級霊であった」
「我々人間は皆神の子である」
「イエスは輪廻転生を説いていた」など、
エドガー・ケイシーと同じことを主張していました。


キリスト教には真理の一部が説かれていても、
教義の中には後世の人間の考えが入ってしまっているのではないかと思えますし、

私はエドガー・ケイシーやスピリチュアル思想で言っていることが真実ではないかと思っています。

 

 

 

 

なぜ地縛霊・浮遊霊は自分で決めた死に方を思い出せないのか

スピリチュアルでは、人が亡くなった時、
自分の死に方に納得できない場合や、自分の死に気づかない場合は、
あの世に帰らないでこの世に留まり地縛霊になったり浮遊霊になったりすると言ってます。
同じく、スピリチュアルでは自殺以外の人の死は、
この世に生まれてくる前に自分で決めて生まれてくると言っています。

 

そうであるなら、自殺以外はどのような死に方をするにしても、
それは自分で決めてきたということになるわけです。


それなのに、亡くなった時、自分の死に方に納得できないからとか、
自分の死に気づかないためにあの世に帰らない、帰れないというのはなぜなのかと
近頃疑問に思うようになりました。


肉体から抜け出て霊そのものになると、
それまでの顕在意識10%~20%程度、潜在意識80%~90%程度から逆転して顕在意識80%~90%程度、潜在意識10%~20%程度になるということなら、
死を迎えた人は自分がなぜ死んだのかということを思い出すのではないかと思うのですが、
地縛霊や浮遊霊になる人がいるということは、
霊そのものになっても、自分があの世で決めてきた死に方を思い出せないということになるようです。


そこが輪廻転生の仕組みで少し納得できないところで、
自殺以外でどのような死に方をしたとしても、それは自分が決めてきたことなのだと
死んだ直後に思い出せるのなら地縛霊になったり浮遊霊になったりすることもないと思えます。


地縛霊や浮遊霊は霊本人にとっても苦しみであったり、幸福なことではないはずですが、
現世を生きている人にとっても、地縛霊や浮遊霊は霊障の原因になったりして
迷惑な、あるいは恐ろしい存在でもあるわけです。


YouTubeの実話怪談などの動画でも見ますが、
事件や事故現場で霊に憑依されたとか、
引っ越し先で霊に遭遇したとかいう話がよくあります。
私も若い頃住んでいたアパートで霊現象と思われる金縛りを何回か経験しています。


そのように地縛霊や浮遊霊はこの世を生きている人間からすると迷惑な存在です。
その場合でも、自分に関わりのある霊ならまだしも、
自分とは何の関係もない霊に憑依されたり霊障を及ぼされたりするのは
実に迷惑な話です。


死んだ時、自分が決めてきた死に方なんだと思い出せればそういうこともないだろうと思いますが、
輪廻転生の仕組みとして、人は死んだ時、すぐに自分があの世で決めてきたということを思い出せるようになっていれば
そういう迷惑なこともなくなるのだろうと言えますが、
ただ、地縛霊になったり浮遊霊になったりする霊は、
それだけ現世に執着してしまっているために、
あの世で決めてきたことも思い出せないのかもしれないですね。


いずれにしろ、この世を生きていくのは、現世としての試練だけでなく、
地縛霊・浮遊霊による霊障にまで対処しなければならないという、
さまざまな困難に満ちた世界だと言えます。

 

 

 

 

あの世でもスポーツはあるのか考察

先日閉幕したミラノ・コルティナオリンピック。
開幕前はあまり関心はなかったんですが、

始まってみるとついつい見入ってしまいました。
日本人選手の活躍が素晴らしかったですね。

 

それにしても、いつも思うんですが、フィギュアスケートやスノーボードなど、
人間業とは思えないような技が披露されるのを見ると、
スピリチュアル的に考えるとオリンピックに出場するような競技者は
転生輪廻の過程でスポーツに精進する人生を繰り返してきたのではないかと思えます。

 

スポーツというのは肉体があってこそできるものであって、
肉体のないあの世ではスポーツはないのだろうかと思ったりしていたのですが、
スピリチュアル思想を調べてみると、スポーツは全くできないということではないようです。

 

多くのスピリチュアリストは 「肉体はないが、意識で創造された“身体”や“環境”で活動できる」 と説明しています。
そのため、スポーツに似た活動は可能と考える人が多いようです。

ただし、地上のような「物理的な筋肉を使う競技」とは違い、
意識・エネルギー・想念で動く“ライトボディ”のようなものを使うという説明が一般的です。

 

ここで、スピリチュアリストの主な見解をまとめておくと次のようになります。

1. シルバーバーチ(英国の霊訓)
霊界では「思念が形を作る」ため、
望めば地上と似た活動を創造できると述べています。

霊界にも「学び」「仕事」「娯楽」があるとされ、
娯楽の一つとして「運動的な活動」も可能と解釈できます。

※ただし、具体的に「サッカーをする」などの例は出てきません。

 

2. アラン・カルデック(心霊研究の創始者)
霊は「思念によって移動し、形を変えられる」と説明。

肉体的な疲労はないが、
霊的な活動として“遊び”や“楽しみ”は存在すると述べています。

→ これも、スポーツ的な活動が可能という解釈につながります。

 

3. スウェーデンボルグ(霊界探訪を記録した神学者)
霊界には「地上に似た社会」「広場」「庭園」「活動」があると記述。

霊たちは“身体”を持つように感じて行動する。

→ 彼の描写からも、運動的な活動は十分あり得ると考えられます。

 

4. 日本のスピリチュアリスト(江原啓之氏など)
江原啓之氏は「あの世にも趣味や活動がある」と述べています。

ただし、肉体的なスポーツというより、魂が喜ぶ“活動”というニュアンスです。

→ 地上のスポーツをそのままやるというより、
 魂の世界に合った“遊び”や“表現”があるという立場です。

 

肉体のないあの世でもスポーツが可能だとされる理由として、
スピリチュアル思想の多くは、次のように説明します。

●あの世では「思念が現実を作る」

●霊は“エネルギー体”として行動できる

●霊界にも「学び」「遊び」「創造」がある

●霊は地上の記憶や好みを持ち続ける


つまり、
「スポーツをしたい」という意識があれば、それに似た活動を創造できる  
という考え方です。


ただし、地上のスポーツとは違う点として、
多くのスピリチュアリストが共通して言うのは、

●肉体的な疲労はない

●物理法則に縛られない

●競争よりも「喜び」「調和」が中心

●失敗や怪我がない


つまり、
“魂の遊び”としてのスポーツというイメージに近いということです。

 


まとめると、

●あの世では、肉体はないが、意識で創造された“身体”で活動できる

●多くのスピリチュアリストは「運動的な活動は可能」と説明

●ただし、地上のスポーツとは性質が異なる

●競争や物理的制約よりも「楽しみ」「創造性」が中心

ということになるようです。


ただ、肉体を持たない霊存在は思うだけで何でもできてしまうので、
物理的に多くの制約がある肉体によって不可能と思えることを成し遂げるというような爽快感は得られないようです。


つまり、霊存在となってからスポーツをしても難なくどんなことでもできてしまうので感動が得られないということです。


なので、スポーツでの成功を目指している霊たちは、
あの世では得られない肉体による限界を極める喜びを得るために、

この世に生まれ変わってくるのでしょう。

 

 

人生に意味を見出すスピリチュアル思想

今回はスピリチュアル思想をまとめた動画を紹介します。
多くのスピリチュアリストが語っている人生の本質が分かりやすくまとめられていて、
生きる上での理解が得られやすいです。


特に、輪廻転生の仕組み、カルマの法則、魂の進化の秘密、
そして存在の真の目的が解き明かされていると思います。

 

 

 

スピリチュアル思想を知らなければ、人生は混沌としたもの、偶然にあるもの、

あるいは分けのわからないものという考えのままにこの人生を生きていくことになってしまいますが、

スピリチュアルを知ることによって、人生の意味が分かってくるものです。

そういう意味で、スピリチュアルとは単に神秘思想やオカルトという見方ではなく、

人生に意味を見出すための考え方と言えると思います。

 

 

 

祖母の不思議な話

私の母には霊感があり、当ブログにもいくつか記事に書いたことがありますが、
祖母(私の母の母親)にも不思議な話があります。
昔、母に聞いた話で、近頃思い出したので今回記事に書きます。


1つめは祖母が河童を見たことがあるという話です。
祖母が子供の頃、川べりで、牛が河童に脚をつかまれて川に引きづりこまれそうになっているのを見たことがあるというのです。
私の母はその話はあまり信用していなかったようですが、
しかし、世の中には河童を見たという人はいるものです。


有名なところでは歌手の前川清さんの父親が子供の頃、
河童と相撲を取ったことがあるそうで、
YouTubeの心霊チャンネルで、前川清さんの娘の侑那さんがその話をしていました。


スピリチュアルでも妖怪は実在すると言っているので、
河童も存在しているのではないかと思えますね。

なので、祖母の作り話とも言えないです。

 

それともう1つの話は、私の母が10代後半の頃のことで、
祖母の両手の甲の部分がただれてしまったことがあり、
当時は水虫に有効な薬がなかったようで、祖母の手の甲のただれはひどくなっていき、
炊事ができないので、私の母がしばらく代わりに炊事をしていたそうです。


そういう時に、家の修理のため出入りしていた大工に家族がその話をすると、
その大工が治療法を知っていて、その方法を教えてくれたのだそうです。
それで家族で教えられたとおりに行なったそうなんですが、
その治療法というのは次のとおりです。

 

まず、次の物を用意します。

(1)金属製の洗面器
(2)屋根瓦(7~8cmくらいに丸く切っておく(3個ほど)
(3)ニラの種
(4)七輪
(5)菜種油

 

用意ができたら七輪で火を起こし、
洗面器に水を入れ、七輪の上に乗せます。


次に丸く切った瓦を3個ほど、水を張った洗面器に入れます。
その際、瓦の上側が水から少し出ているくらいにするのだそうです。

そして瓦が赤く熱せられたら、ニラの種を瓦の上に乗せ、
そこへ菜種油をかけます。

すると、煙が出てくるので、家族が広い布を広げて持って、
煙が逃げないように煙の周りを囲み、
その布の中に水虫の患部を入れ、煙を患部の手の甲に当てるのだそうです。

そうしていると、煙が当たっている手の甲の小さな穴から虫のようなものがぞろぞろ出てきたというのです。
その虫のようなものというのは糸のように細く、長さは1センチもなかったそうで、
手の甲からぞろぞろ出てきた虫のようなものが洗面器の中に落ちていったのだとか。


手の甲から出てきた虫のようなものはすでに死んでいて動いてはいなくて、
煙の出るのが終わった時、手の甲から半分ほど出てくる途中のものもそのまま死んでいたそうです。

 

その治療法は1回だけでは終わらず、
それを数日間繰り返し続けたら完治したのだそうです。


母は水虫の患部から虫のようなものが這い出てきたと言ってましたが、
その頃、私は水虫の原因はカビの一種の白癬菌だということを知っていたので、
母が見たものは虫のように見えても実際は白癬菌だったのだろうと思っていました。


ただ、白癬菌だということは知っていても、どういう姿形をしているのかというのは知らなかったので、
母が言っていた通り、虫のような姿をしているのだろうとその時は納得してしまい、
その後、白癬菌について調べてみることもしないでいました。


それが、母からその話を聞いた時にメモしていたメモ用紙が近頃見つかり、
そのことを思い出したので念のためにネットで白癬菌の画像を見てみたのですが、
枝が連なったような形をしていて、とても虫のような形には見えないです。


それから生成AIに、母と家族が大工から聞いたという水虫の治療法について、
実際に水虫を完治させることができるのかと聞いてみると、
そういう民間療法では完治させることはできないし、
ニラの種の煙で白癬菌が皮膚から出てくるというようなこともないという答えでした。


どうやら、私の母や家族が見たというものは水虫の白癬菌ではないようですし、
そもそも、祖母の手がただれたという症状は水虫だったのかという疑問が湧きます。
母の記憶違いだったのかとも思いましたが、家族全員が見たと言っていたので
実際に虫のようなものが出てきたのか。
それがわからないですね。
スピリチュアルな内容ではないですが不思議な話です。
母や家族が見たというものは何だったのか、今となっては謎のままです。

 

 

無縁墓は参拝・掃除してはいけない!墓参りの心霊的ルール

YouTubeのスピリチュアル系動画を聞きながらパソコン作業をすることが多いんですが、
実話怪談の動画もよく聞きます。

 


実話怪談は単に怖くて面白いというだけでなく、
心霊を扱っているので、スピリチュアル思想と通じるところがあり、
納得できる内容があるのでつい聞いてしまいます。

 

この前も、実話怪談動画で、墓掃除に行った時、
隣の墓の卒塔婆に鳥のフンが付いていたので、拭いてきれいにしたら、
そこの霊を連れて帰ってしまったという話がありました。

 

スピリチュアルでも、無縁墓を拝むと無縁仏の霊に憑依されたりすることがあるから
無縁墓を拝んではいけないと江原啓之氏が言ってますが、
やはりよその墓を拝んだり掃除したりはしない方が良いということのようです。

 

それで思い出しましたが、私が若い頃で都会に住んでいた頃、
長期休暇で実家に帰省して、父と共に我家の墓参りに行ったことがありました。

 

当時の我家の墓は納骨堂ではなく、公営の墓苑にあり、
墓と墓周りを掃除した後に参拝したのですが、
その時、父は隣の無縁墓らしい荒れた感じの墓にも向かって参拝していました。


父が言うには「誰も参拝しに来てないようで可哀想だから拝んであげた」そうですが、
私は本で読んだかテレビ番組で見たのか忘れましたが
無縁墓を拝んではいけないということを聞いたことがあったので、
「そういうことはしない方が良いんだけどな」と思いました。


しかし、その頃はスピリチュアルについてはよく知らなくて、
心霊についても半信半疑でそんなに信じてはいなかったので、
何も言いませんでした。


今思えば、父がしたことはスピリチュアル的にやってはいけないことだったわけですが、
ただ、その当時、父や私たちの家族に何か悪いことが起きたということはありませんでした。


ですが、基本的に、自分の墓以外のよその墓は拝んだり掃除などはしない方が良いということのようです。


こういったことも迷信などと思わずに、言われているように守った方がいいようですね。