スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

ネットで話題の前世が平安時代の僧侶だったという人

久々に光です。
きょうはたまたまネットで見た情報を記しておきます。
その情報というのは、
今ネットで話題になってるという、
前世が平安時代の僧侶だったという人の話です。

その記事はこちら⇒http://www.yuiaochang.com/entry/2018/01/19/011317
        ⇒http://magurojuice.blog.shinobi.jp/Entry/21/

自殺未遂をされたようで、
その時、前世を思い出したようなんです。

こういう話があると、
すぐ嘘だ作り話だと批判する人もいると思いますが、
私はあの世も生まれ変わりも前世も来世も当たり前のように信じてるので、
別に嘘だとは思わないですね。
前世というものはあるし、
それを思い出すこともあるんだろうなと思います。

きょうは時間がないのでここまでにします。

母の不思議体験

お久しぶりです、光です。
近頃、私の同居してる母親が不思議体験をしてるのでそのことについて書いてみます。
以前にも書きましたが、私の母は少し霊感が強いようで、
何度か不思議な体験をしてますが、近頃としては、
去年の12月初めの頃と今年の春頃と2回不思議だなと思うことがあったようです。
母は歳取ってから腰が悪くなってあまり動けないので
数年前から私が同居して介護してるのですが、
夜、寝る時に灯りを消して間もなくして、
母が急に「何してるの?」と大きな声で言うので、
私が言われたと思って「何もしてないよ」と返事すると、
「あれ、今そこに立ってたと思ってたんだけど?」と母が言うのです。
母が言うには台所に行く方の襖の前に年取ったおじさんが立っていたそうで、
そのおじさんは顔が陽に焼けていて、部屋の中をキョロキョロと見回していたそうなんです。
それで母が声をかけると消えてしまったというのです。
それが去年の12月初めの頃のことなんですが、
今年の春にも同じようなことがありました。
その時、母が見たという人物は違う風貌をしたおじさんだったそうですが。
夢を見てたのではないかと思ったんですが、
母が言うにはまだ眠る前で、夢ではないと言うのです。
母は少々霊感があるので、あるいは霊を見たのかなとも思っています。

以前にも書いたことがあるかもしれませんが、父が亡くなり、
私が母の介護のため実家に帰ってきて一緒に住むようになってから
私も不思議だと思うことがありました。
夜眠っていると、ガーンという大きな音がして目が覚めたことがありますが、
その音が聞こえたのは部屋の中の電話機のある辺りからで、
別に何か物が落ちたり当たったりしたというような痕跡もなく、
また、同じ部屋に寝ている母に聞いても別にそんな音は聞こえなかったと言ってました。
それからその後のことなんですが、夜中の決まった時間(夜中の2時から3時頃辺りだったと思います)、
毎日のように、台所に行く方の襖が何か物が当たったような、
あるいは誰かが軽く叩いたりしてるような、コンという音が何回か鳴ったこともありました。
コンという音は軽い音で少しの間をおいて2,3回鳴って止んでました。
それが毎日のように続いたんですが、2週間くらいして鳴らなくなりました。
当時は父が亡くなって間がなかった頃だったので、
父の霊が何か知らせようとしてたのかとも思ったりしましたが、
未だによくわかりません。
このところはそういう音は聞こえません。
霊現象と思えることでも、実際は科学的に説明のつく物理現象だったということもよくあるので、
これらの音の現象も別に霊現象ではないのかもしれませんが、
どこまでが純然たる物理現象なのか、どこまでが霊現象なのか、
この世を生きている間は分からないのではないかと思います。

芸能界の今回の騒動について

長い間放置してしまいましたが、
このところの芸能界の騒ぎについて久しぶりに書いておきたいと思います。
松居一代さんと船越英一郎さん、どうなってしまったんでしょうかね。
数年前、テレビ番組の「オーラの泉」に別々にですが2人とも出てましたが、
その時、江原啓之氏が船越さんと松居さんの息子は前世では実際の親子だったと言ってましたが。
それだけ強い絆があるのに離婚したら縁が切れたりしないんでしょうか。
離婚はしても親子としての絆は続くのかもしれないですが。
まあ、絆があるのは船越さんと松居さんの息子との間であって、
松居さんは前世で同じ時代に生まれ合わせたといっても関係は薄かったという話だったので、
結局離婚して別れてしまう結果になるんでしょうかね。
スピリチュアルを信じない人からすれば、
江原氏が「オーラの泉」で言ったことは
「何の根拠もない作り話」と切り捨てるでしょう。
私はスピリチュアルは信じてますが、
闇雲に信じてるわけではないです。
ただ、江原氏が言っていたように、
船越さんと松居さんの息子は今世でも本当の親子のような間柄だったようですから、
前世では実際の親子だったという話も全くの作り話とは思えないですね。
私も霊能者ではないですから、断定することはできませんが。
その江原啓之氏は近頃、今回の騒動についてテレビで発言しているようです。
私は見てませんでしたが、その番組での発言の内容がここにまとめられています⇒江原氏の発言

霊能者と言っても人の人生を霊能力で何とかできるというものではないので、
今回の松居さんと船越さんの騒動は江原啓之氏でもどうにもならないでしょう。
憎しみ合って別れてゆくのか。
和解することがあるのかどうか。
どうなるんでしょうか。

気になる予言

こんばんわ。
このところ、ニュースでもワイドショーでも、障害者を19人も刺殺した事件が連日報道されてますが、世界に目を向ければ、特にヨーロッパではイスラム過激派によるテロ事件が相次いでおり、何とも暗澹たる思いを抱いてしまいます。
そのことに関連して、近頃あるサイトで見つけた情報ですが、ババ・ヴァンガというブルガリア人の予言者が、近年の「イスラム国(IS)」の台頭を予言していたのだそうで、それが話題になっているようです。
その予言によると、これから先、ヨーロッパではイスラムとの戦争が起き、その結果ヨーロッパは「ほぼ無人の荒れ地となり、存在しなくなる」のだそうです。
詳しくはこちらのサイトを御覧ください⇒http://eien33.eshizuoka.jp/e1634685.html

これから先、まだまだイスラム過激派が世界を席巻していくことになり、イスラムに支配されるということになるんでしょうか。

その予言が的中するかどうかはわかりませんが、その予言どおりだとすれば、人類には明るい未来はないようですね。
世界はどうなってしまうのか、どこに向かうのか。

疑問再び

お久しぶりです、光です。
今年初めに「今年もよろしくお願い致します」とブログに書いたのに、その後長く放置してしまい申し訳ありませんでした。
きょうはどうしても書いておきたいことがあるので久しぶりにブログ更新しておきます。
どうしても書いておきたいことというのは、今世界に衝撃を与えているバングラデシュでのテロ事件です。
日本人が7人殺害されてしまいましたが、その方々は、発展途上国のために尽くしたいという高い志を持っていた人々だったそうで、
以前にも書きましたが、なぜ人のために尽くしている人が無残に殺されなければならなかったのかということを私は言いたいのです。
スピリチュアルの立場で言えば、なぜ守護霊は護ってくれなかったのか、志半ばで殺されるのも宿命だったのか、などなど、疑問に思ってしまいます。
またテロリスト側についても、テロリストについている守護霊は悪行をやめさせようとはしないのか、などとも思ってしまいます。
これでは守護霊が悪人の手助けをしているようにも感じられてしまいますし、このようなテロが世界的に広がってゆくのを見ると、神はこの世の世界を見放してしまってるのかとも思ってしまいます。
悲嘆ばかりの内容になってしまいましたが、まだまだこの世の仕組み、人生の仕組みというのは私にとって謎だらけです。

自分で決めてきたことなのかどうなのか

こんばんわ、光です。

今年最初のブログ記事になりますが、今年もよろしくお願い致します。

ところで、このところニュースでもワイドショーでもスキーバスの転落事故について報じられています。

大学生が多数犠牲になっていますが、その人たちを知っている人々からは、優秀な学生で、人間的にもとても良い人たちばかりだったという話が伝えられています。

確かにこの世に必要な人たちが早くあの世に還らなければならなくなってしまったという感慨を抱いてしまいますが、スピリチュアル的にはこのような場合も、初めから当人たちが決めてきた宿命だったんでしょうか、どうなんでしょうか。

この事故の他にも、去年起きた劇団女優殺害事件などのように、夢を抱いて何かに一生懸命取り組んでいて前向きに頑張って生きている人が、何者かに殺されて夢を断たれてしまうということも多いですが、そういう人たちも、その人生は自分が生まれる前に決めてきた人生だったんでしょうか。

その逆に箸にも棒にもかからないようなどうしようもない人間が長々と生きている例もよく目にしますが(私なんかもそうかも知れません)、そういうのを見ていると、本当にスピリチュアル思想でいうように、自分で決めて生まれてきたんだろうかと思ってしまいます。

夢を抱いて前向きに頑張って生きている人が急に理不尽にもこの世の人生を断たれてしまったら、いくら自分で決めてきた人生であっても未練執着が残って成仏できず地縛霊にでもなってしまうのではないかとも思ってしまいます。

そして、いくら夢を持って前向きに生きていても、地縛霊になってしまったんでは何にもならないと思ってしまいます。

そこのところが疑問に思うところです。

進化論について

今日見た『そこまで言っていいんかい』というテレビ番組で、パネリストとして出演している竹田恒泰氏が進化論について批判していました。
そこで、竹田氏は、「進化論では人間は猿から進化したと言ってるが、猿から人間へと進化する中間過程の化石が見つかっていない。
猿から人間に進化したのが真実なら、進化する過程の化石が見つかるはずだ」と批判していましたが、それは高橋信次氏もそう言ってましたね。
少なくとも日本では、一般的に進化論を信じている人が多いと思いますし、私も高橋信次氏の思想に出会うまでは進化論を信じてましたが、今では高橋氏などが説く「人間は最初から人間としてこの世に出現した」というのを個人的には信じてます。
ただ、それを声高に主張するところまではできません。
それは客観的に証明できるようなことではなく、私自身がこの目で見たわけではないからです。
実際のところははっきりわからないというのが実情だからです。
そういったことも、あの世に還ってみないことには真実・真相はわからないのかもしれないですね。
この世を生きている間は、ああだこうだと思うだけで、実際のところは謎のままで終わりそうです。

科学者でも霊の存在を信じる場合

お久しぶりです。
昨日、今年のノーベル賞の授賞式がスウェーデンストックホルムで行われ、医学生理学賞を受賞した大村智氏と物理学賞を受賞した梶田隆章氏にメダルが贈られました。
私はニュースで見ましたが、その中で、授賞式に向かう大村智氏がインタビューに答えていて、亡き妻、文子さんの写真を見せながら、 「(妻も)連れてきました。忘れられませんよ」と語っていました。
また『女性自身』のインタビューには「ノーベル賞は、文子と一緒に頂きます」とも語っていました。
そういう言葉からすると、大村氏は科学者には珍しく霊の存在を信じているようですね。
ガチガチの唯物論者である大槻義彦氏からは「科学者のくせに霊なんか信じてるなんて」といった声が聞こえてきそうですが、科学者と言えども、苦労をかけた亡き妻もきっとどこかで喜んでいるだろうという気持ちになると思います。
まあ、大村氏は真理として亡き妻の霊が存在していると考えているというよりも、単に感傷的な気持ちの表現をしているだけかもしれないですが。
いくら「霊なんか存在しない」と思っている唯物論者であっても、身近な人が亡くなったりしたら、大槻氏のような割り切った考え方ができるんでしょうか。
例えば災害などで近親者が亡くなった場合でも、「霊は存在しないんだから慰霊祭や供養なんかしてもムダだ」と言い切れるかどうかですね。
やはり、唯物論者でも慰霊祭や供養の儀式に参列して亡くなった人が安らかに眠れるようにと祈りたい気持ちになるのではないかと思います。
だから大村氏も研究が認められノーベル賞を受賞できたことで、亡き妻も喜んでいるという気持ちになるんでしょう。
やはりそれが自然な想いであるし、霊は存在すると考える方が自然な気持ちだと思います。


 

早く生まれ変わってくる場合

おはようございます、光です。
私は生まれ変わり、輪廻転生を信じてますが、そのことについて疑問に思ってることを書いてみようと思います。
よく、生まれ変わりの話題とされるニュースで、ある子供が前世を覚えていて、その子供が、自分はどこそこに住んでいるある人物から殺されたと主張しているとして話題になっているとか、ある家に生まれた子供はその家のおじいさんの生まれ変わりだと主張しているとして話題になったとかいうニュースがときどきあるものです。
そして、そういう子供の主張は、単に子供がそう言ってるだけではなく、証拠になるものがあって、それが子供の主張を裏付けているということで真実味を帯びていて話題になっているものです。
実際にそういうことはあるのかもしれないですが、ただ、スピリチュアル思想では普通、死後数百年くらい経ってからこの世にまた生まれ変わってくるといってますが、上に書いた事例だと、前世で殺されて、まだ殺した犯人が生きている間にすぐ生まれ変わってくるということになります。
そんなに早く生まれ変わってくることもあるのでしょうか。
普通、人から殺されたりした場合、殺されたことへの恨み憎しみからあの世にすんなり還れず地縛霊になることが多いようですが、すぐ生まれ変わってくることもあるんでしょうかね?
ただ、非業の死を遂げた人は、この世への未練などから死後早く生まれ変わってくるという話を聞いたこともあるので、あるいはそうなのかもしれないですね。
それから、同じ家系に、たとえば祖父がそこの家の子供として生まれ変わってくるということがあるんでしょうか。
これもスピリチュアル思想では普通、死後また生まれ変わってくるときは、前世とは違う国や人種に生まれてくることが多いようですが、同じ家系でしかもすぐに生まれ変わってくることもあるんでしょうかね。
この世では同じ家系、同じ一族、親族家族であっても、あの世でその家系や家族が同じところに住んでいるというわけではなく、この世で家族であってもあの世に還れば魂の故郷が違っていて皆バラバラになるそうですから、死後また同じ家系に生まれてくるというのは、あり得ることなのでしょうか。
そこのところがよく分からないところではあります。

妖精の骨?

この前見た超常現象のテレビ番組で、妖精の骨が発見されたというのを放送してましたが、スピリチュアル思想では妖精はあの世の自然霊であってこの世の生き物ではないということなので、骨などはないはずなんですが、どうなんでしょう。
人間が作った偽物でないのなら、何かの生物の骨なのかも知れないですが、妖精の骨ではないんじゃないでしょうか。
まあ、この世ではまだまだ分からないことだらけなので結論は下せませんが、妖精の定義からすると違うと思いますね。
まあ、そんなに真剣に考えることではないですが、この世で不思議に思える現象などはこの世を生きている間に真相が分かるということはないと思います。
あの世に還ってからでないと不思議現象の真相は分からないでしょう。
結局この世を生きてる間は謎は謎のままということになりそうです。

守護霊・指導霊は信じない方がよい?

こんばんは、光です。

丹波哲郎氏の本に、守護霊には朝晩のあいさつをするなどコミュニケーションをとっていればよく守ってもらえるだろうと書かれていたので、私も当時はなるべく守護霊とコミュニケーションをとるようにしていたのですが、その後、江原啓之氏がテレビ番組で、守護霊に頼りすぎて自分で努力しないなら守護霊は守ってくれないと言ってるのを見て、そうかもしれないなと思いました。

人は人生がうまくいくようにとか、悪いことが起きないようにという気持ちから何かを信じて頼りたいと思うものです。
それがいろいろな信仰という形になっているのだと思うのですが、守護霊や指導霊の場合は頼っても却って厳しく突き放されるようで、江原啓之氏は自分で努力してこそ守護霊や指導霊が守ってくれるし助けてくれるのだと言っています。
結局、守護霊や指導霊が自分を守ってくれるか助けてくれるのは、信じるか信じないかではなく、自分で努力するかしないかということのようです。
そう言えば、大槻義彦氏や松尾貴史氏や上岡龍太郎氏などはガチガチの唯物論者で霊とかあの世とか生まれ変わりなどを否定し批判してましたが、この人たちの人生は別に悪いことも起きず、それなりに成功の人生を送っているようです。
守護霊など信じず自分自身で努力していったから却って守護霊に守られ指導霊に助けられて人生がうまくいってるということではないでしょうか。
逆に守ってもらおう助けてもらおうと思って、仏壇にたくさん供え物をして先祖供養などを一生懸命やってる人に限って不幸なことが起こったりして人生がうまくいかないものです(実際にそういう人を何人か知っています)。
「神は自ら助くる者を助く」ということわざもあるように、自分で努力しないで頼りすぎてはいけないということなのでしょう。
そういう意味では、大槻氏などのように、「守護霊なんかいない」と思っているぐらいがいいのかもしれません。
ただ、それでも私は自分に守護霊がついているということを実感しています。
いままで私は自転車で道路を走っている時、横の路地から徐行もしないでいきなり車が飛び出してきたりして轢かれそうになったことや、歩道を歩いている時でも、車が歩道に徐行もしないで進入してきて轢かれそうになったことが何度もありますが、その度ケガもしないで助かった体験があります。
それは守護霊に守ってもらえたのだろうと思っていますし、そのように実感しています。
ただ、指導霊については、自分には指導霊はついてないか、ついていても霊格の低い指導霊しかついてないんだろうなと思っています。
指導霊はその人の仕事や才能などの分野で導き助けてくれる霊なのだそうですが、私は未だに自分の才能が花開いたこともなく、自分に向いてないと思う方にばかり人生が進んでしまっているように思えるので、恐らく指導霊から見放されているのではないかと思います(-_-;)
まあ、自分の努力が足りないということなのかもしれませんが(^^ゞ

愛の優先順位についての考察

こんばんは、光です。

スピリチュアル思想では「愛」を最重要な根本のテーマとしています。
「人を愛する」「人に愛を与える」ことこそが人生の全てだと言っています。
その「愛」についてなんですが、私は愛の優先順位について考えていたことがありました。
それは、イエス・キリスト墨子が説いていた「無差別の愛」が最重要なのか、それとも、孔子孟子が説いていた「自分の親や身内を優先した愛」が最重要なのかということです。
孟子は「無差別の愛」を説いていた墨子を「自分の親をないがしろにするものだ」と批判していましたし、墨家側は孟子の思想を「自分の身内だけを愛する差別愛だ」と批判していました。
どちらも一理はあると思いますが、ただ、私は以前は、自分は親によって養われ助けられて成長してきたのだから、まずは自分の親を最第一に愛するべきではないか、また、家族として兄弟と助け合って生きてきたのだから、親に次いで、兄弟などの身内を他人よりも優先して愛するべきではないかと考えてましたので、孔子孟子のいうことが正しいのではないかと思っていました。
以前はそのように考えていたのですが、近頃は考え方が変わってきて、イエス墨子の「自分の家族と他人を差別しない普遍的な無差別の愛」が真理として正しいのではないかと思ってきているところです。
というのも、これもスピリチュアル思想によっているのですが、自分の親や兄弟といっても、あの世での故郷が違う魂がこの世で仮の家族として生まれ合わせていることが多いということなので、その観点から言えば、自分の家族であっても元々は他人と変わらないわけです。
で、あるならば、自分の家族と他人を差別する根拠もないのではないかと思えてきたからなのです。
確かに親や兄弟から助けられてきたということはありますが、他人からも助けられてきているわけですから、そこに優先順位をつけるという差別愛は間違いではないのかと思っているところなのです。
とはいっても、現実にはどうしても家族優先になってしまうものですが。
普遍的な人類愛とか無差別の愛などと大きなことを言う前に、まずは自分の家族を愛せなければ赤の他人も愛せないと言えそうですね。

霊能者が言ってることの違い

こんばんは、光です。

以前に霊能者によって霊界観が違うという記事を書きましたが、それ以外にも霊能者の言ってることにはいろいろと違いがあるものですね。
例えば、美輪明宏さんは「南無妙法蓮華経」の題目が霊を成仏させる力が一番強いから、題目を唱えなさいと言ってましたが、近頃見たあるスピリチュアル系ブログのブログ主さんは「南無妙法蓮華経」では成仏できない、霊を成仏させるには「南無阿弥陀仏」の念仏でないとだめだと書いてました。
また、江原啓之氏は神道系ですね。
このように、それぞれの霊能者によって霊を成仏させる方法などにも違いがあるようです。
なぜ、そんな違いがあるのかとか、どれが本当なのかとも思ってしまいますが、
どれが正しいかどうかというよりも、それぞれに方法が違うというだけなのかもしれません。
まあ、こういう霊能者によって言ってることやってることに違いがあるから唯物論者はいかがわしく思って信じないのかもしれないですね。
確かにそれはあると思います。
そういうことがあるので、やはり1人の霊能者の言ってることの全てを信じるということはしない方がいいと思います。

精霊界での予定

こんばんは、光です。
丹波哲郎氏の霊界本には、人は死んだ後あの世に行ったら、まず精霊界にしばらく滞在して、そこでこの世でのアカを落として素の状態になってからそれぞれの魂の故郷(霊界)に還ってゆくと書いてありましたが、その精霊界に滞在してる間には、会いたいと思っている人(霊)とも会えると書いてありました。
スウェーデンボルグ丹波哲郎氏が言っていた精霊界というのは江原啓之氏などのスピリチュアル思想で言うところのいわゆるサマーランドに相当する所だと思いますが、そこで自分が会いたいと思う人ですでに霊界に還っている人であれば、会いたいと思っただけで、その会いたい人が引き寄せられてすぐ目の前に現われるのだそうです。
私はそれを知ってから、何だかホッとした気分になりました。
というのは、私はこれまでの人生で出会った人で、申し訳ないことをしてしまったと思う人が何人かいまして、謝りたくてもその人たちは今どこにいるのか、まだこの世にいるのかすでにあの世に還っているのかも分からない状態で、そのことがずっと心に引っかかっていて自責の念を持っていました。
そういう時に丹波哲郎氏の霊界本を読み、あの世の精霊界で会いたい人に会えると知り、あの世に還った時、精霊界でその人たちに謝ろうと思ったものです。
もちろん相手がすでにあの世に還っている場合の話ですが、この世でできなかった心残りのことがあの世に還ってできるというのが何だか心の救いというか安堵感になり、霊界についての知識を知って良かったと思っているところです。
まあ、実際にそうなるのかどうかはわかりませんが、私はあの世は確実に存在すると思ってますので、丹波哲郎氏が書いてた通りになるだろうとは思っています。
あと、私が謝りたい人で、まだこの世にいる人に対しては、私が死んだ時、その人の所に行き、夜、相手が眠っている時に相手の夢の中に入って自分の名前を名乗って謝ろうと思っています。
夢の中に入らずにそのまま相手の前に出ると幽霊なので相手を驚かせたり怖がらせてしまうことになるので、夢の中で謝ろうと思っています。
とにかく申し訳ないことをしてしまったと思う相手にはしっかり詫て心残りを完全に払拭して霊界に還りたいと思っています。そうしないと死んでも死に切れないという心情になって成仏できないかもしれないですから。
あの世に還った時のことまであれこれ考えていると、唯物論者からは「死んだ後のことまで予定を立てるなんてムダなことじゃないか」などと笑われると思いますが、私にとってはあの世が存在し、死後はそこへ還るというのは当たり前のことなんです。

魂の年齢

こんばんは、光です。
またまた更新が遅れてしまいました。

以前、『オーラの泉』で江原啓之氏が、魂の年齢ということを言ってました。
この世に生まれてからの年齢ではなく、魂としてこの世に輪廻転生してきた経験の年齢なのだそうです。
この世での輪廻転生の経験が多い魂ほど人格(霊格)が磨かれていくのだそうです。
だからこの世での歳が若いのとか歳取っていることとは関係がなく、若くても魂年齢の高い人もいれば、年寄りなのに魂年齢が幼い人もいるということで、確かに、歳をとっているのに分からず屋な人間がいたり、年が若いのに物分かりがよく立派な人物もいるものですね。
それは魂の年齢、つまりこの世への転生の経験の多い少ないによる違いなのだそうです。
その観点から言うと、うちの家族では、弟の方が魂の年齢では私よりも歳上じゃないかと思いますね(笑)
たとえ小学生であっても大人の私よりも魂の年齢が上という場合も当然あるわけですから、だからこそ、歳が若いからといって見下したりしてはいけないということなんですね。