スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

宇宙が出来る前はどうなっていたのか

こんばんは、光です。

誰でも1度は考えたことがあると思うんですが、
宇宙が出来る前はどうなっていたのかとか、
宇宙の果てはどうなっているのかとか、
神が実在するなら、神はいつから存在するのかとか、
私も子供の頃から考えていたものです。
まあ、考えたからといって分かるものではないんですが、
興味が尽きない事柄なので、ひまがあれば考えたものです。
ちなみに、私が子供の頃考えていたのは、
宇宙の外側は神の世界で、そこに人間と同じような姿をした神様が住んでいて、宇宙を見ているのかな、
と考えたりしたものです。
現代科学でもそういうことはまだ解明されてませんが、
スピリチュアルではどうかというと、神は元々から存在しているとか、
宇宙も最初から存在しているとか、
始まりも終わりもなく、最初から存在している、
といった言い方をしているようです。
物事には始めと終わりがありますから、宇宙も始まりがあり、その前にも始まりがあり、
神が存在するのも始まりがあると思ってしまうんですが、
それはあくまでもこの世の物質世界的な考え方であって、あの世ではこの世的な成り立ちが通用しないのかもしれませんね。

だから、この世を生きている限り、その解明はできないと思います。
宇宙の果てはどうなっているのか、宇宙が出来る前はどうなっていたのか、神が実在する前があったのかどうか、
などという疑問はあの世に還ってからでないと分からないんでしょう。
あの世に還っても分からないかもしれませんが。

霊界観の違い

こんばんは、光です。
ずいぶん更新するのが遅くなってしまいましたが、下書き中だった記事をここで投稿しておきます。

以前にも書きましたが、あの世の世界の描写については、霊能者によってそれぞれ微妙な違いがあります。
大まかには共通しているところがあるんですが、細かいところで違いがあります。
霊界の界層についての呼び名もそれぞれに違いがあります。

江原啓之氏や雲黒斎さんなどが使っているあの世の界層の呼び名は、下層から言うと幽現界・幽界(通称サマーランド)・霊界・神界となります。これはスピリチュアリズムでの正式な分類になっているようです。

それ以外にも高橋信次氏はもっと細かく、魂のレベルによって四次元幽界、五次元霊界、六次元神界、七次元菩薩界、八次元如来界、九次元宇宙界に分かれていると説いていました。

『宗教情報センター』にそれぞれの霊能者・霊界研究家の霊界観の比較表が掲載されていたので、ここに抜粋して転載しておきます。

スウェーデンボルグ

死後の世界は、天界・地獄・精霊界の3つの世界に大別できる。
天界は天国と霊国の2つに分けられ、それぞれ3つの国に分かれている。地獄も3つの国がある。
まず精霊となって精霊界に入る。精霊となった後、霊界に入って永遠の生を送る霊となる。
現世で物欲にまみれて霊的な事柄に開眼しなかった精霊は、類が集まるのと同じように自分の希望に沿って地獄へ行く。
どの霊界に入るかは、生前の報酬や罰としてではなく、生前の霊的な内心が霊界のどの世界に対応するかによって決まる。
霊の生活の目的は、霊的人格の完成である。

丹波哲郎

霊界は7層で、1〜2層が地獄界、3〜5層が霊国、6〜7層が天国で、6層が天界層、7層が天上界。
魂は白光体に包まれ、約50日後に精霊界へ。
精霊界では死んだ近親者に再会できる。
精霊界→三途の川→霊界と進む。
最期の審判はないが、天国(天界層)と地獄もある。
愛に満ちた心の人は天国へ、利己的な心の持ち主は地獄へと自ら進んでいく。
平均120〜130年で転生。
霊界の記憶は消滅する。
人間界は魂が修業する場。人生の目的は魂を作り上げること。
神が命じた修業期間を勝手に短縮した自殺者に霊界は厳しい。


宜保愛子

魂は肉体から抜けて15分ほどで三途の川を渡り、49日を過ぎる頃までは先達の霊(現世で身近だった人、家族などの霊)に導かれて霊界を歩き、その後は一人で旅する。
霊界は基本的に一人で、会いたい人にも会えず、会えても楽しくない。
最期の審判はないが、徳を積んだ人は天国への道を歩める。
地獄とは暗い道を歩き続けること。
天国の道は軽やか。
霊界とは輪廻転生に向かって修業し、歩き続ける場所。
平均50〜100年で転生する。
霊界の記憶は消滅する。
人間は人間、動物は動物に生まれ変わる。
人間としてこの世に生まれてこそ幸せ。
天国への近道を通るには①自殺しない②現世に未練を残さない、など。
生きている人が供養すると霊の歩みが軽くなる。
死後49日経つと守護霊になれる。
真剣な合掌が守護霊を呼ぶ。
自殺者がこの世に戻るのは難しい。


江原啓之

死後の世界は幽現界、幽界、霊界、神界の4つに分かれる。
魂が肉体から離れると幽現界に行く。
先に死んだ家族にも会える。
約49日間のあと幽界→霊界へと進み、最終的には魂の故郷である、古い魂が溶け合っている類魂に帰結する。
やがて類魂の一部を分霊して、再生する。
死後の世界には階層があり、生前の行いによって分けられ、人のために心を砕いた人は高い境地、我欲に生きた人は低い境地に入る。
転生したとき、霊界の記憶を捨てる。
魂は、修行の場を選んで再生する。
目的は神(愛の力)への帰結を目指すため。
誰にでも守護霊がいて、死後の世界でも見守る。
自殺は学びを途中放棄すること、苦しみは死後のほうが重くなる。
現世に未練、執着があると幽霊になる。



◆矢作直樹

先に死んだ人とは再会できる。
霊魂は不滅。神(摂=大いなる力)と霊魂は不離の存在。
良心とは摂理の声。人生の目的のひとつは、利他行為をすること。
天皇は、国民のために祈り、死者の魂を鎮める。


   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

このように比較して見てみると、宜保愛子さん以外はあの世が霊本来の世界で、魂の故郷という考え方で共通しているようです。
高橋信次氏もあの世が実在界で、この世は仮の世界の現象界という表現をしていました。
宜保愛子さんだけは、あの世は基本的に1人であるとか、会いたい人にも会えないとか、この世に生まれてこそ幸せとか、あの世よりもこの世の方が本来の世界のような表現をしていましたね。
死後四十九日で守護霊になれるというのは、「え、そんな簡単に守護霊になれるのかな?」とも思ってしまいますが。
丹波哲郎氏も、宜保愛子さんの霊視能力は高く評価していたようですが、あの世についてはあまり詳しくないというようなことを言ってましたね。

これだけそれぞれに違いがあると誰の言ってることが本当なのかと思ってしまいますが、スピリチュアル思想の場合(他の宗教関係の場合でもそうですが)、1つの思想をそれだけが正しいと固定的に考えない方がいいようです。
基本的には細部までこだわって考えるより、大まかな捉え方をしていた方が間違いがないように思います。
霊能者もその霊能力が100%正確というわけではないようですから、それを絶対視しない方がよさそうです。
私はあの世が存在するということは100%信じてますが、細かい表現などについては、それを絶対視しないようにしています。
本当にその通りかどうかわからないからです。
細かいことにこだわり過ぎるとかえって真実が見えなくなるからです。

母の心霊体験

こんにちは、光です。

今回も母の心霊体験を書いてみたいと思います。

その当時は私と弟はすでに実家を出てよそで生活していたので、実家には両親だけで住んでいました。
その日の夜は父は1階の部屋で、母は2階の部屋で寝ていたそうです(父のいびきがうるさいので、別々の部屋に寝ていたそうです)。
母が寝ていると船のエンジンのような音がどこからともなく鳴り響き出して、それが朝方までずっと続いていたため母はなかなか眠れず、やっと明け方頃にうつらうつらしていたところ、急に金縛りになって体が動かなくなってしまったというのです。
体は動かなくても意識はあり、ふっと窓を見ると、そこに若い女の幽霊がいたというのです(窓にカーテンはしてなかったそうです)。
女は白い着物を着ていて、あまり長くない髪型で、きれいな顔をしていたそうです。
その若い女幽霊は部屋の中には入ってこなかったそうですが、窓の外から窓ガラスに張り付くような感じで私の母を見ていて、
「恨めしい、殺してやる」と言ったというのです。
私の母は恐怖を感じて「まだ子どもたちは結婚してなくて一人前になってないので、子どもが結婚するまで待ってください!」と必死に頼んだところ、その幽霊はスーッと消えていき、金縛りも解けたそうです。
母はその幽霊の顔を見た時、誰かの顔に似てると思ったそうなんですが、後で考えると、3人の知っている人物に似てると思ったそうです。
その似ている3人というのは、若くして亡くなっている人ばかりで、
1人は私の父の叔母になる人で、若い時に結婚したそうなんですが、結婚後間もなく相手側から一方的に離縁させられてしまい、その後、行方が分からなくなり、未だに生死がはっきりしていません。
母は会ったことはないですが、写真で顔は知っていたそうです。
2人目は私の叔父(私の母の弟)と同棲していた恋人で、私が小さい頃、叔父と2人で私の実家に遊びに来たことがあるそうです。
その人はその後妊娠したそうなんですが、ささいなことで叔父と喧嘩になった時に叔父から腹を蹴られ、それが原因で胎児とともに亡くなってしまったということです。
3人目は母が新婚の頃住んでいた社宅に、やはり新婚で近くに越してきた若い奥さんで、その人はしばらくして全身に激痛が起こるイタイイタイ病になって亡くなってしまったということです。
母は女幽霊の顔を今でもはっきり覚えていると言ってますが、その3人ともに顔が似ているので誰と特定できないと言っています。
ただ、この3人とも非業の死といってもいい亡くなり方をしているようですが、この3人の中の誰であるにしろ私の母が恨みを受けるような筋合いではないです。
それに、もしその3人の中の誰かだとしても、死後すぐ出てこないでかなりの年数が経ってから母のところに現れたのが謎です。
それはともかく、「子どもが結婚するまで待ってください」と頼んだのが相手に通じたのかどうか、その後、その幽霊は2度と現れてないそうで、母も今まで生き永らえています。
ただ、その幽霊を見てからは、夜、寝ていると振動するような感覚が起き、それが心臓に伝わって動悸が激しくなって眠れなくなったそうなんです。
それで別の市に住んでる叔母(母の妹)の家や近くに住んでる伯父(母の兄)の家に泊めてもらったりしていたんですが(自宅以外なら動悸は起きないそうです)、泊めてもらってばかりもいられないので、しばらくして別の家に引っ越したんですが、引っ越してしばらくは何ごともなく夜は眠れていたのが、また振動のようなものが響いてくるようになり、動悸が激しくなって眠れなくなったそうです。
母はいくつかの病院で診てもらったんですが、原因が分からず、とりあえず安定剤を処方してもらってそれをずっと飲んでいました。
私は母の症状は、テレビ番組で見たことがある低周波による障害ではないかと思ってましたが、それだと一緒に住んでる父も同じ症状が出るはずなんですが、父は何ともないということでした。
それがその幽霊による霊障だったのかどうか分かりませんが、長く続いていた母の動悸は数年前にいつの間にか治まったようで、今は寝ていても動悸は起きなくなったそうです。
やっと霊障が解けたのかとも思えますが、それは霊との約束で私たち子どもがまだ結婚してないからかもしれません。
結婚してしまうと霊に母の命を取られてしまいそうで、なかなか結婚できないでいます(まあ、私が結婚しないのはそれだけが理由ではありませんが(^^ゞ)。
母の心霊体験の中でもこの話が1番インパクトのある体験ではないかと思いますが、母の前に現れた女幽霊が誰だったのかは、母があの世に還ってからでないと真相は分からないのかもしれないですね。

夢枕の話

こんにちわ、光です。

親しい人が亡くなった時、夢枕に立つという話はわりによく聞きますが、私の母もそういう体験があると言ってました。
私の母は霊感の強いところがあり、いくつか不思議な体験をしているようなんですが、そういう母が体験した話というのは、小学生の頃に、夜眠っていると、夜明け頃にその頃仲の良かった友達が訪ねてきて、「よそに行かなければならなくなった。さようなら」と別れのあいさつをしてきたそうなんです。
そしてその夢を見てしばらくして、母親(私からすれば祖母)が「友達の〇〇ちゃんが亡くなったそうだよ」と言って起こしに来たそうなんです。
話を聞くと、母の友達は昨日の夜までは何ともなかったのに、夜急病になって明け方頃に急死してしまったということです。
その友達は近所に住んでいて母はよくそこへ遊びに行っていたそうなんですが、そこの母親が朝早く知らせに来たそうなんです。
やはり、親しい人の魂はあいさつに来るものなんですね。その場合、直接霊として出現するのではなく、夢の中に現われて別れのあいさつをするというパターンが多いようです。
私の場合もそれに似たような夢は見たことあります。夢枕と言えるかどうか分かりませんが、10年ほど前に見た夢なんですが、20年近く前に同じ職場にいたMという人がもう1人(そのもう1人は誰なのか分かりませんでした)と一緒に私の家の玄関内に立っていて、私に何かあいさつみたいなことを言っているのです。何を言ってるのかは覚えてませんが、別れのあいさつみたいな感じでした。
それだけの夢なんですが、そのMという人とはわりと親しかったので、もしかすると亡くなったのか、そして魂が別れのあいさつに来たのかと思ったものです。
まあ、昔の友達や知り合いの夢を見たからといって必ずしもその人の魂があいさつに来たと決めつけることはできませんが、そういうことはあるものなんでしょう。

憑依による殺人事件

先月、女子大生が高齢女性を殺害する事件があり、女子大生は「人を殺してみたかった」と言っているそうですが、昨年の女子高生が同級生を殺した事件とよく似てますね。
このような恨みや憎しみではなく金銭目的でもなく、純粋に「人を殺してみたい」という思いによって殺人を犯すというのは「サイコパス」と呼ばれてますが、こういう人間は普段は頭が良かったり(今回の事件の女子大生も去年の事件の女子高生も頭が良くて成績も優れていたそうですが)、特に問題もないように見える生活をしているのに、それが人を殺してみたいという思いを抱いていて、それを実行してしまうというところが理解しがたいところです。
やはりこういう事件を起こす人間というのは霊に憑依されていると考えた方がよさそうです。
よく「心の教育」ということが言われますが、霊に憑依されている人間には心の教育も役に立たないんじゃないでしょうか。
ただ、殺人を犯した女子高生も女子大生も子どもの頃から人を殺したいと思ってたそうですが、そんな子どもの頃から霊に憑依されてしまうというのはどういうことが原因なのかと思ってしまいます。
スピリチュアルでは、一方的に霊に憑依されるということはなく、憑依される人間にも波長同通するだけの思いがあるからだと言われてますが、子どもの頃から悪霊と波長同通するような思いがあったんでしょうか。そこがよくわからないところです。
親の育て方とか生活環境とかの影響もあるとは思いますが、どんな心の教育をしていても霊に憑依されて人を殺してしまうのでは対策も立てようがないという感じはします。
結局本人の気持ちの持ち方、心がけ次第ということなんでしょうか。いまさらですが、何だかこの世は恐ろしいところだなと思ってしまいます。

疑問点

昨日の記事にも書きましたが、愛のある行為を行なってもそれが通じないことは多いと感じてしまいます。
中東の現地人や難民のために医療などの人道支援活動をしている人が過激派に殺害されていますが、人を救うという正しい行為や愛の実践をしている人が殺されてしまうというのは、守護霊はその人を守れなかったといういうことなんでしょうか。
それとも、人を救う行為をしていて殺されてしまうというのもそれも宿命なんでしょうか。
過去世での業によって正しいことをしていても殺されてしまうという宿命になってるんでしょうか。

まあ、スピリチュアル的には、今世だけでは分からない原因というものがあるんだと思いますが、そこのところが何だか釈然としないところでもあります。

悪に愛は通じるのか

ごぶさたしてます、光です。
1カ月以上ブログ更新してませんでしたが、その間、いろいろな事件がありました。
ISIL(イスラム国)については書きたいことがたくさんありますが、あまり批判を書くと狙われそうなので(日本語のブログまでしっかりチェックしてるかどうか分かりませんが)、抑え気味に書いておきたいと思います。
オウム真理教の場合もそうでしたが、宗教の怖さというものが感じられる事件です。
神の名や預言者の名や宗教の名を利用した犯罪集団とは言えますが、そういう神聖なものを利用すればどんな悪行でも正当化できるという怖さがあります。
あんな残虐行為を行なっていて神の許に行けるなどと本気で思ってるのかどうか分かりませんが、それを信じ込ませて自爆テロなどを決行させているところが宗教の名を利用している怖さです。
それだけに、単なる犯罪者よりも悪の度合いが深いのではないでしょうか。

唯物論者からすれば、神が実在するのなら、こんな神の名を利用した悪党たちになぜ天罰を与えないんだと言うところでしょうし、私もそう思うこともありますが、神は人間の所業には直接手を下さないようです。
あくまでも、神が作った法則に則って善悪それぞれにその報いが返ってくるということなのでしょう。しかも、この世ではタイムラグがあるため、悪にもすぐにはその報いが現れないということのようです。そのため、悪が栄え勝ち誇っているように見えてしまうわけで、その点が歯がゆい気持ちにもなるものです。
ここで思うんですが、よく「愛は世界を救う」という言葉を聞きますし、それは真理なのかも知れませんが、ISILのような問答無用という相手には愛とか対話とかは通じないのが現状です。
以前にも、中東で現地人を救うために医療などの人道支援をしていた人々がイスラム過激派に殺害されるという事件が起きていましたが、愛ある行為であってもこのような過激派には愛が通じないという現実があります。
そして、愛による人道支援をしていた人がなぜ殺されなければならないのか、なぜ守られなかったのかという理不尽さも感じます。

そういう点から見ても、ただ「愛は世界を救う」というだけでは世界を救えないという難しさを感じますし、愛の通じない悪には武力行使もやむを得ないのかと思ってしまいます。
その辺のところがよく分からないところではあります。

死んだ時したいこと

こんばんわ、光です。

もう少しすると正月ですが、一休さんの歌に「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」というのがあります。
正月が来るたびに年をとって死に近づいていくのだから、正月はめでたくもありめでたくもないということですが、確かに正月がくるたびにそれだけ寿命が近づいていることになります。
死というと私などは(ほとんどの人がそうだとは思いますが)苦しいもの、嫌なもの、悲しいもの、痛いものというイメージをもっていますが、しかしどんなに嫌なものであっても避けて通れないのが死であるわけです。
それで私はスピリチュアル思想を知るようになってからは、死について楽しいイメージをもつようにしているんです。
私は死んだら『千の風になって』のように、まず大空を思う存分飛び回ろうと思ってます。それから瞬間移動して今まで行ったことのない外国に行き、世界中を見て回ってみようと思ってます。
そうすることでこの世の不自由な人生から解放されて自由の身になったことを実感したいと思ってます。
そう考えることによって死に対する苦しみや悲しみのイメージを軽くしようと考えているんです。
そのためにはもちろん絶対に自殺しないようにしなければと思ってます。

では、今年は当ブログの更新はきょうまでにします。

それではよいお年を。

タイムラグについての考察

前回の記事に、この世では善悪の結果がなかなか見えにくいと書きましたが、スピリチュアルでは、それは原因と結果の間にタイムラグ(時間差)があるからだと言っています。
私がそれを初めて知ったのは高橋信次氏の著書からで、近頃では雲黒斎さんのブログでも見ました。
あの世は念の世界なので、思ったことがすぐに現象化して結果が即座に出るそうですが、この世は物質の世界であるため、心で思ったことや言葉にしたことや行動したことがすぐには現象化しないで、結果が出るまでに時間がかかるのだそうです。そういう時間差(タイムラグ)が生じるために、この世では善が負けたように見えたり悪が栄えているように見えるのだということです。

そういうわけで、この世では善を行なっても悪を行なってもその結果がすぐには出ないので、善いことしたのに悪いことしか起こらないとか、犯罪者が逃げおおせたり悪人がのさばったりしているように見えるのでしょう。
そういう世の中を見ていると、つい「神も仏もいない」と思ってしまうものです。そして、清く正しく生きることがバカバカしいと思ってしまうわけなんですが、そこがやはり魂の修行というわけなんでしょう。
結果として良いことが起きなくても善いことをするようにし、悪が栄えているように見えても悪事に手を染めず、犯罪を起こさないようにして生きるということが大事なのでしょう。
それは「引き寄せの法則」とか「プラス想念」などでも同じで、私などは今までいくらプラス想念をしてもなかなか願っていることが実現しないためあきらめたりしていたんですが、やはりあきらめずにプラス想念を続けることが大事なようです。
何というサイト名か忘れましたが、あるスピリチュアルサイトに書いてあったのですが、プラス想念をしていても願っていることがなかなか実現しないのは、前世のカルマのために実現しにくいのだと書いてありました。いつかは実現するのかも知れませんが、前世のカルマのために簡単には夢が実現できないのだそうです。そういう場合、この世では実現できず来世まで待たなければならないということになりそうです。
まあ、それが魂の修行なんでしょうが、この世では確かに忍耐力が必要です。
とにかく結果がすぐ出なくても、いつもプラス想念をするように心がけないといけないようです。

正義は必ず勝つのか?

前回の記事で、この世にユートピアを実現するのは不可能ではないかと書きましたが、その関連で書いておきます。
よく「正義は必ず勝つ」という言葉を聞きますが、これまでの歴史や世の中を見ていると、この世では必ずしも正義が勝っているとは言えないように見えます。それどころか、この世では正義が負けて悪が栄えているようなありさまではないでしょうか。
それについてスピリチュアル思想では、今世では正義が負けて悪が栄えているように見えても、この世だけで結果が出るというわけではなく、あの世に還ってからとか、来世や再来世になって結果が出ることも多く、その時に悪には必ず悪の報いが結果として出る。それによって正義は勝ち、悪は必ず負けるようになっていると言っています。
何回か生まれ変わらなければ結果がわからず、そのような長い期間を経て正義が勝ち悪が負けるということですが、それだと、この世を生きている間に「正義は必ず勝つ」という結果が見えないので、正しい生き方ができにくいという面があります。
悪が勝ち栄えているように見えるため、「清く正しく生きていても何にもならない」という考え方がはびこる危険があります。というか、現にそういう考え方がまかり通っているようにも見えます。
まあ、スピリチュアルでは、そういう正義が負けて悪が栄えているように見える世の中で、どれだけ正しく生きるかということが魂の修行になっているというわけでしょう。
魂の修行というのはなかなかわかりにくくできているものだなと思いますね。この世を生きている間に正義が勝ち悪が滅びるという結果がすぐわかれば一番わかりやすくて納得できるんですが、すぐにはわからないようになっているから不信感を持ったり無力感が出てきたりするわけです。
この世を生きていくコツの1つとしては、ものごとをあまり性急に考えない方が良いということになりそうです。とにかく長い目で見なければならないわけで、この世を生きるにはやはり忍耐力がいるものです。

この世にユートピア実現は可能か?

スピリチュアルでは、私たちがこの世に生まれてくる目的は魂の成長のためであると言っています。また、宗教の多くは、この世に天国のようなユートピア理想社会)を実現するためとも説いています。
高橋信次氏も我々がこの世に生まれる目的は魂の進化成長のためと、この世に理想世界を実現するためと言っていたようです。
確かにそのような理想を持って生きていくのは重要だと思います。ただ、このように書くと批判されるかもしれないですが、私個人の感想としては、この世に天国のような理想社会を実現するのは不可能ではないかと思っています。
というのは、スピリチュアルではこの世は修行の場であり、我々は魂の修行のためにこの世に生まれてきていると言っているわけですから、この世が天国のような理想の世界になってしまったらもはや修行の場ではなくなってしまうからです。
さまざまな問題が渦巻くこの世で悩み苦しみながら生きていくから修行の場になっているのではないでしょうか。

実際のところ、この世の人間社会では大昔から現代に到るまで争いが絶えず続いています。特にイスラム原理主義は世界に拡散し脅威となっています。
また、ユダヤ人とアラブ人などは地球が続く限り憎み続けるんではないかと思えるほどいつまでも争いと憎しみがなくならないようです。
このようなさまざまな問題が山のようにあるこの世に、天国のような理想社会を実現するというのは不可能としか思えないですね。
いつかはこの世に地上の天国が実現される時がくるとしても、その前に地球は滅びているんではないでしょうか。
世界ではなく日本国内だけを見ても、これもまたさまざまな問題がいくらでもあり、理想社会実現には気の遠くなるような道のりを感じます。
そもそも理想社会という意味で使われているユートピアという言葉は「どこにもない国」という意味だそうですから、この世に理想社会を実現するということ自体が不可能なことではないかと思ってしまいます。

まあ、このように書くと「そんなあきらめと絶望感で生きていったらこの世はちっとも良くならないじゃないか!」と批判されるかもしれないですが、私としてもこの世に天国のような世界が実現すれば楽に生きやすくなるわけですから、その方が良いに決まってるんですが、現実には無理ではないかなと思ってしまいます。
それでも、この世に天国のような世界を実現するよう努力して生きることが魂の進化成長になるということでしょうか。
確かに、実現不可能に思えても、良い世の中になるよう努力して生きていかなければならないのでしょう。

臨死体験しておきたかった

こんばんわ、光です。

テレビでも時々臨死体験についての番組があったりしますが、私は臨死体験というと憧れてしまいます。というより、臨死体験しておけば良かったなと思ってしまうのです。
というのは、私の親が言うには、私は生まれて4日目頃に死にかけたことがあるんだそうです。何が原因なのかわかりませんが顔が紫色に変色してぐったりなってしまっていたそうです。
それで両親が近くの医者に連れて行くと、その医者は「これはどうにもならないですね。取りあえず栄養剤を打っておきましょう」といって注射をしたそうです。今から思うとヤブ医者みたいですが、それから3回ほど通院して注射を打ってもらい、また、山を越えたところの町に霊媒者が住んでいるというのを人から聞いて、父が私の産着を持って行ってお祓いみたいなことをしてもらったそうです。
そういうことが効いたのか、その後私は元気になっていって健康に育つようになったそうです。
その話を聞いて、死にかけたのなら自分は臨死体験したのかもしれないなと思っていたのですが、しかし、臨死体験するとどんなに長い期間が経ってもいつまでも鮮明に覚えているものなんだそうです。
それに対して、私は自分が死にかけたことは全く覚えてないですし、その時臨死体験したという記憶も全くありません。
そもそも死にかけたといっても心臓が停止して完全に死の状態になったわけでもないようですから、臨死体験するところまでいかなかったということのようです。
それで今思ってるところなんですが、どうせ死にかけたのなら、完全に死の状態になって臨死体験しておけば良かったなということです。
臨死体験するとその後の人生が大きく変わる人が多いそうですから、私もあの時臨死体験していたら、もっと違った人生になっていたんじゃないかとか思っているところです。

霊界の裏世界について (2)

前回の続きを書いておきます。
前回、霊界の裏世界については高橋信次氏やGLA系教団しか言ってないと書きましたが、他にも同じようなことを言っている霊能者はいるようです。

例えばこちらのブログ
↓  ↓  ↓

http://japan-spiritual.blogspot.jp/2014/08/blog-post_27.html

こちらのブログの管理人さんはGLA系ではないようですが、高橋氏と同じく霊界には裏世界があると書いてますね。
また、江原啓之氏は裏世界について何も言ってないと書きましたが、以前『オーラの泉』で、この世を生きている人にはあの世の自然霊の系統で龍神系とか天狗系とか稲荷系といった系統の霊の人もいるというようなことを言ってましたね。その自然霊系統の霊というのが裏世界の霊ということになるんでしょうか。

ということはやはり高橋信次氏が言っていた裏世界というのはあるのかもしれないですね。

霊界の裏世界について

こんばんわ、光です。
このところ忙しく、ブログを更新する暇がありませんでしたが、やっと一息ついたので新しく記事を書いておきます。


高橋信次氏の思想の中には、霊界には表側の世界と裏側の世界があるというものがあります。高橋氏の思想の影響を受けているいわゆるGLA系教団でもその思想があります。
霊界の表の世界というのは普通にいう天国と地獄の世界ですが、裏世界というのは仙人とか天狗とか河童とかといった念力や超能力を磨いている魂やいわゆる妖怪などと呼ばれている種類の魂が住んでいる世界なのだそうですが、高橋氏やGLA系教団以外の霊能者から裏世界というのは聞かないですね。
江原啓之氏が裏世界のことを言ってるのは聞いたことないですし(魔界のことは言ってたことがありましたが)、雲黒斎さんの『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』にもそういうことは書いてないようですが。

高橋氏の言う裏世界の住人は人間的な情というものがないようですが、では悪霊なのかというとそうでもないようで、善霊とか悪霊とかはっきり分けられない存在のようです。

では、裏世界の住人の魂は表側の魂とは別なのか、それとももともと同じだったのが輪廻転生での過程での魂の傾向性によって裏世界の魂になってしまったのか、そこのところがよく分かりません。

まあ、確かにそう言われてみれば、世の中には念力の修行や超能力を競っている人物もいますし、そういう人物はあるいは裏世界の魂なのかなと思ったりもします。例えば占い師の細木◯子さんなどは裏世界の天狗じゃないかと思ったりもしますね。