スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

類魂についての考察

こんばんわ、光です。

スピリチュアル思想には類魂という考え方があります。類魂はグループ・ソウルとも言われてますが、その類魂について『スピリチュアリズム普及会』の解説を以下に転載しておきます。

霊界ではその人の霊的成長レベルに見合った界層に行くことを述べましたが、その界層の中で、魂の類似性を持った者同士が惹き合い、グループをつくるようになります。“類は類をもって集まる”といったことが現実に起こるのです。そうした霊的レベルの等しい霊の集合グループは、小さなものでは数十人から、大きなものでは数千人にも上る霊たちから成り立っていると言われています。
このように霊界では同じ霊的レベルに達した者同士が集まり、一緒に生活するようになります。そして1つの霊的家族というようなグループをつくります。

この類魂については江原啓之氏は同じ性質の魂の集まりをコップの水に、そのコップの水から一滴の水がこぼれ落ちる様をこの世に生まれてくる1個の魂として譬えてました。雲黒斎さんも『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』で似たようなことを書いていました。

ただ私はこの類魂という考え方が今ひとつ感覚的によくわからないですね。まあ、この世で肉体を持って生きている身であれば、あの世での魂の感覚というのは理解しにくいのは当然とはいえますが。

高橋信次氏は我々個人の魂は本体1,分身5の「六親眷属」というグループによって成り立っていると言ってましたが、これが類魂に当たるようです。ただ、スピリチュアル思想ではグループの構成は6体だけでなく、数十人から数千人になると言っているので、その点に相違点はありますが、恐らく同じことを言っているのだろうと思います。
その点について理解しやすい解説をしてたのが丹波哲郎氏で、霊界本の中で、あの世に還った魂は精霊界にしばらく滞在し、その間に素の状態に戻った霊は自分の魂の故郷へと還っていくそうで、その魂の故郷というのは1つの村になっていて、そこには同じ性質、気質の者ばかりが集まって住んでいるのだと書いていました。この魂の故郷の村というのが類魂のことなんだろうなと今では思っています。これなどはわかりやすい説明でしたね。
ただ、イメージとしてはそういう村に住んでいるように書いてますが、実際はどういう状態で類魂として1つになっているのかというのが感覚的によくわからないところです。

これについてはまた同じテーマで考察してみたいと思います。

業についての考察

この世での苦難の人生は自分で選んだものである、というのがスピリチュアルの思想ですが、なぜ、その苦難の人生を選んだのかという事については種々の理由があるそうで、ひとつには、自分が過去世で人を苦しめるようなことをしたのなら、その苦しめられた相手の気持ちを学ぶためというのがあります(高橋信次氏が言っていたように、過去世での悪業そのものはあの世で修正してくるのでその報いがストレートにこの世に現われるということはないので)。
江原啓之氏はそれに加えて、先祖が犯した悪業を自分が背負ってくることもあるからと言ってましたが、私はそれが納得いかないです。
自業自得果というように、自分が行なったことが原因で、それが自分に返ってくるというのが真理の法則のはずなんですが、それ以外に、自分ではなく先祖が犯した悪の報いを子孫の自分が背負わされるというのが理不尽に思えて納得できないのです。
私は江原氏が言ってることは大概信じているんですが、この点が納得できないところではあります。

差別をなくすスピリチュアル思想

スピリチュアルでは、あの世には国の違いや人種・民族の違いというものはなく、魂がこの世に生まれ変わってくるときは前世のときと同じ国・人種・民族に生まれてくるとは限らないといってます。
もちろん、続けて同じような環境に生まれてくる場合もあるかもしれませんが、これまでとは全然違う環境として違う国や人種・民族に生まれてくる場合もあるのでしょう。
例えば前世ではイギリス人だった人が今世では日本人に生まれ、来世は中国人に生まれてくるというように、国や人種・民族を超えて生まれ変わってくるということです。
その場合、例えば前世が黒人を差別していた白人の人生だった場合は、差別される側の苦悩を学ぶために今世では黒人として差別される人生に生まれ変わってくるなど、人種や民族の立場を変えて生まれ変わってくるということです。
そういう観点からすると、近年問題視されている過激なヘイトスピーチを繰り返して他人種・他民族を差別し排斥している差別主義者などは、来世は立場を逆転して差別される側の人種・民族に生まれ変わってくるということになるんでしょう。
差別主義者は来世の存在など考えたこともなく、また、生まれ変わりを信じているとしても自分が差別される側の人間に生まれるなどとは夢にも思ってないのかもしれませんが、スピリチュアル思想を知れば、人種差別・民族差別はできなくなると思います。
来世では自分が差別される側として生まれてくるかもしれないと思うと、この人生で人を差別できなくなるのではないでしょうか。
そういう意味でも、スピリチュアル思想は人種差別・民族差別などあらゆる差別をなくすために役に立つ思想ではないかと思いますね。

この世での家系

昔、『おもいっきりテレビ』の中の「おもいっきり生電話」のコーナーで、姑から「男の子どもを産め、男の子が生まれないと家系が絶えてしまう」と言われ続けてストレスになっている、という相談の場面がありましたが、大昔ならともかく、近年、家系を重要視する人は少なくなってきているのではないでしょうか。
司会のみのもんたさんも「今どきそんなこと言う人がいるんだねえ」と驚いてましたが、スピリチュアルの立場から言っても、この世での家系にこだわる必要はないようです。
あの世の世界は波長同通の法則によって同じような想いを持っている魂ばかりが同じ場所に集まるようになっているということです。
あの世にはこの世での家族とか家系という集まりはなく、この世では赤の他人であっても同じような想いを持っている魂は同じ所に集まるようになっているようです。
よく、死期に際して、先に亡くなっていた身内の霊などが迎えに来ると言われてますが、それでもあの世に自分の家系の集団があるわけではないようですし、あの世は魂の故郷とも言いますが、その場合でも現世での自分の先祖たちの元へ還るというわけでもないようです。この世での一族や家系はあの世での魂の一族や故郷というわけではなくこの世だけのものということでしょう。
それに、来世生まれ変わってくるときは現世のときと同じ家系に生まれ変わってくるとは限りません(別の家系に生まれ変わってくることが多いと思いますが)。
だから、この世での家とか家系とかいうのはあの世では関係なくなるわけですから、そんなに家とか家系とかを後生大事に考える必要もないわけです。
この世でどんなに由緒正しい名門の家柄であってもあの世に還れば無関係になってしまうわけです。
その点、私の家系はどこの馬の骨とも知れないような家系なので、はじめから家を守るとかいうようなことも考える必要はないので、その点気が楽ではありますが(^_^;)

呪い代行業

先日、テレビを見てたら、呪い代行業者という人物が出演して芸能人と議論している番組を放送してました。
出演していた呪い代行業者は2人で、1人は本業は神職だそうで、もう1人は仏に仕える身といってたので仏教の僧侶、その中でも密教系の僧侶のようでした。
呪い代行業というのは、依頼者に代わって呪いたい相手に呪いをかけるという仕事なんだそうで、代行業者がいうには呪いをかけて全て成功するわけではないが、7割くらいは成功するといってました。
その番組ではゲストの芸能人も批判的な意見をいってましたが、スピリチュアルの面から見ても呪い代行業はアウトでしょう。
本人が呪う場合も代行業者が代わりに呪う場合でも、それは悪の行為になってしまうからです。
「人を呪わば穴2つ」という言葉もあるように、人を呪ったらそれは自分に返ってくるんではないでしょうか。
ましてやその代行業者は神に仕える身であったり仏に仕える身でありながら呪いという神や仏の道に背くことを代行しているわけですから、その罪は重いと思います。
いびられたりいじめられたりしている場合、呪いたい気持ちもわかりますが、多くの宗教でもスピリチュアルでも、呪いは自分に返ってくるといってるんですからやめといた方がいいでしょう。
代行業者がいうには、呪い代行の依頼者の8割以上は女性で、恋愛ごとがほとんどだそうで、それも略奪愛が多いということですが、そういう呪い代行によって好きな相手を奪っても幸せにはなれないでしょうし、結局は不幸になっていくんではないでしょうか。
そのためにもスピリチュアル思想は知っておいた方がいいですね。知らなかったでは済まされないですから。

安楽死についての考察

前回に続いて自殺について考察してみます。
スピリチュアルでは自殺は罪になるということですが、それなら病気などでの苦痛を長引かせないために患者本人の意思に基づいて死期を決定するという安楽死はどうなんでしょうか。
少し前に、末期の脳腫瘍にかかっていたアメリカ人女性が自らの意思で薬物により安楽死しましたが、それに対してカトリックは「安楽死は自殺と同じ」という声明を出してました。
スピリチュアルではどうなのか。同じスピリチュアルといっても霊能者や研究家によっても見解の違いはあるのかも知れないですが、江原啓之氏などは緩和ケアで苦痛を軽減しながら自然に死が訪れるのを待つべきだと言っているようですし、自ら死期を決めるのは自殺と同じと言っています。
死を免れないとはいえ自分で死期を決めるのは、スピリチュアルの観点から見れば自殺ということになるようです。

患者本人が自分で安楽死を決めずに、医師や家族が苦しんでいる患者を見かねて安楽死させる場合もありますが、こういう場合は道義的には悪いようには思えないのですが、スピリチュアルの観点から見ると間違いだと言ってますね。あの世で決めてきている、いわば神から与えられている寿命を人間の手で勝手に早めてはならないということのようです。
自分で安楽死を決めずに医師や家族が安楽死させた場合は自殺と同じではないので、死後や来世で大きな苦難に見舞われるというようなことはないそうですが、ただ、霊的準備の出来ていない魂にとってはショックを与えられるので、それが悪影響を及ぼすことがあるということです。どういう悪影響なのか具体的にはわかりませんが、安楽死もあまり良いとはいえないようです。
ただ、家族としては患者の苦しみを早く終わらせたいという気持ちになるのもわかりますし、私には難しい選択のように思えます。

自殺についての考察 (2)

はじめに前回の記事で訂正する箇所があったのでお知らせします。
「自殺しても死の状況によっては地縛霊にならない場合もある」というような記事を書きましたが、その箇所で、江原啓之氏もそのように言っているように書いてしまいましたが、江原氏ではなく隈本確(くまもとあきら)氏の間違いでした。あとでネットで調べてみると江原氏は「自殺者は例外なく自殺したことを後悔し、苦しんでいる」と言っているようでして、私の勘違いだったようです。前回の記事の間違った箇所は書き直しました。訂正してお詫びいたします。

では今回も自殺について考えてみます。
自殺は高橋信次氏や隈本確氏などによれば例外もあるようですが、ほとんどの場合、自殺者は地獄に行くか地縛霊になってしまうようです。自殺する人は死んで苦しみから逃れ自由になりたい安楽になりたいと思ったり消えてなくなりたいと思っているのでしょうけど、自殺したあとにも自分というものが存在し、しかも自由を奪われ苦しいめに遭わされるということです。
ただ、そういう苦しい境遇というのはいつまでも続くというわけではなく、反省し懺悔してゆけばやがて天国へと帰れるそうです。
しかし、問題はその先で、天国に帰れても、次に生まれ変わってくるときは、自殺した人生と同じような人生を選んで生まれてこなければならないそうで、テレビの『オーラの泉』でも美輪明宏さんが「自殺するのは骨折り損のくたびれ儲け」と言ってましたし、江原啓之氏も「道にへばりついてでも地を這ってでも生き抜いたほうが新しい生が待っている」と言ってました。
自殺してもいいことは何もないようですね。私は自殺者が苦しいめに遭わされるのは理不尽だと思ってましたが、そうはいってもそのようになっているのならそれに従わないと仕方ないです。

ところでここで告白しておきますが、実は私も自殺をしかけたことがありました。
小学生の頃、ある日曜日の朝に弟と喧嘩をしてしまい、私が母親からひどく叱られ、それで「弟ばかり可愛がられている」と思ってしまった私は、母が昼前に買い物に行っている間に首を吊ろうと思って2階に上がり、しばらくひもをかける所を探しまわったのち、ドアの上の方にひもをひっかけ、そこへ首を掛けて体を倒すようにして首を吊ろうとしたのです。
しかし、初めはくやしさの勢いで本気で自殺するつもりだったんですが途中で少し興奮が冷めてきて、首をひもにかけたまま躊躇しているうちに、意外に早く母が帰ってきたようで、お菓子を買ってきたから早く食べなさい、と階下から呼ばれたときは正直ホッとしました。
それでお菓子を食べてから自殺しようと思い階下に降りて行ったんですが、お菓子を食べているうちに自殺する気がなくなってしまいました。というより、本気で死ぬ気はなかったのでお菓子を口実に自殺を取りやめたというところでしょう。
それ以後はもう自殺したいという気持ちは起きなくなりました。
子どもの頃のことで他愛ないことであり、本気で自殺しようという気持ちもなかったとはいえ、スピリチュアル思想を知るようになってからは「あのとき自殺しなくてよかったな」と心底思ってます。
危うく次もまた同じような人生に生まれ変わってこなければならないところでした。ピカソビル・ゲイツのような人生なら何度生まれ変わって来てもいいですが、私の今の人生はもう2度といりません。
何よりも自殺すると自由を奪われるというのが最大のマイナス面です。今の不自由な人生から解放されてもそのあと地縛霊になって自由を奪われ苦しめられたんでは死んでも意味がないです。だから自殺にはまったくいいところがないわけです。

たとえ唯物論的に考えても自殺はいいことだとは言えません。唯物論では死ねば意識は消えてなくなり無になるということですが、あとに残された家族や親しい人々が受ける悲しみを思うとそれは悪いことだと言えるでしょう。
それに、自殺した場所によっては、遺族が損害賠償を請求されることもあるそうですから、自殺というのは自分ひとりの問題ではなく、周りにも迷惑をかけてしまう行為なのです。
だから自殺はいずれにしろ、絶対やってはいけないと思っていた方がいいでしょう。

自殺についての考察

スピリチュアルでは、自殺者は死後、地獄に堕ちるとか地縛霊になってしまうと言っています。キリスト教などの宗教でも、自殺すると魂は地獄行きだと説いています。
具体的にどういう世界に行くのかというのは霊能者や霊界研究家によって違いがあるようです。
江原啓之氏などは自殺者はこの世とあの世の間の幽現界で自縛霊になってしまうと言ってるようですし、丹波哲郎氏は霊界の自殺者の森で木に封じ込められてしまうと言っていたようです。
いずれにしろ自殺は悪という考え方なんですが、以前だと私はそれに納得がいかなかったものです。
人を傷つけたり殺したりするのは当然悪であり、地獄行きも仕方ないが、人を害するわけではなく自分で自分を害するんだからそれは自分の勝手ではないかと思っていたからで、自殺するのがなぜ悪になるのかよくわからなかったからなんです。
それで自殺についてのスピリチュアル思想をよく見ていくと、自殺が許されない理由として、自分で決めた人生の修行を途中で放棄してしまうからであるとか、神への反逆行為であるからとか、残された家族や友人・知人を悲しみと絶望の境地に追いやってしまうからであるといったことが挙げられています。
私は今でも完全に納得しているわけではないんですが、真理としてそういう決まりになっているのならそれに従おうと思っています。
ただ、自殺は全て地獄行きとか地縛霊になるというわけでもないようです。キリスト教などは自殺者は全て地獄に堕ちると言ってるようですが、高橋信次氏や神霊治療家の隈本確(くまもとあきら)氏などのスピリチュアル思想では、自殺といってもケース・バイ・ケースであり、そのときの状況によって地獄に堕ちたり地縛霊になったりする場合もあれば天国に帰れる場合もあると言っているようです。
要するに、苦しみから逃れるための自殺は悪であり、地獄に堕ちたり地縛霊になったりするし、あの世で決めてきた課題を成し遂げ、もうこの世でやるべきこともなく、この世への未練執着心もなくなったという場合は自殺しても天国に帰れるということのようです。
そういう基準で考えると、私などはこの世でのやるべきことがまだ終わってないようなんで、まだまだ自殺は許されないだろうなと思ってます。


文章が長くなったので続きは次回に書きます。

生まれ変わりについての考察 (4)

こんばんわ、光です。

今回も生まれ変わりについて考えてみます。

スピリチュアルでは生まれ変わるとき、動物が人間に生まれ変わることはあるが、人間が動物に生まれ変わることはないといっています。
私がその考え方を知ったのは丹波哲郎氏の霊界本からですが、はじめのうち、その考え方に疑問を持っていました。
私はそれ以前は家の宗教である仏教思想を信じてたので、人間が動物に生まれ変わったり、動物が人間に生まれ変わったりすることはあると当たり前のように信じていたので、人間は人間にしか生まれ変わらないという考え方を受け入れられなかったのです。
家の宗派では、極悪人は来世ではゴキブリやミミズに生まれ変わるといっていたので、例えば連続殺人事件の犯人などは来世はミミズにでも生まれ変わるのだろうと漠然とではあっても、信じていたものです。
というのも、仏教思想では全ての万物は法の下に平等であるから、人間の魂とか動物の魂とか植物の魂などという差別がないため、人間が動物に生まれ変わったり、動物が人間に生まれ変わったりするのが当たり前と説いているからなんです。
それに対してスピリチュアル思想では霊も進化するので、動物だった霊が進化して人間に生まれ変わることはあるといっているようです。
江原啓之氏によれば、霊的進化は鉱物→植物→動物→更に動物の中でも野生の動物より人間に係わる動物(単なる家畜ではなくおそらく犬・猫・馬などの意味と思われる)→そして人霊という段階で進化して生まれ変わるそうです。
では人間はどんなに非道なことをしても動物など人間よりも下等な生物に生まれ変わることはないのかということについて江原氏は、「人霊が動物霊に戻る事例は自分の経験の範囲でそのような例はない」といっているようです。人間が動物に生まれ変わることは絶対ないと断言はできないにしても、まずそういうことはないということのようです。
このような考え方は多くの霊能者が共通していっていることなので、私は今ではそれを信じるようになっています。

ところで、スピリチュアル思想では人間や動物、植物だけでなく、鉱物にも魂(意識)があるといっていますが、最初にそれを知ったのは高橋信次氏の著書からでした。
それまで、石などの鉱物はただの物質でしかないと思っていて、魂があるなどと思ったこともなかったので、高橋氏の本で初めてそれを知ったときは少し驚いたものです。

今回はこのへんで。

生まれ変わりについての考察 (3)

こんばんわ、光です。

前回の続きですが、私が高橋信次氏の説く輪廻転生説を信じるようになったのは、1つには、身体障害者や母子家庭など厳しい環境に生まれた人に対して「前世で悪業を積んだからそういう人生に生まれたのである。この宗教に入らなければその悪業を消すことはできない」などと人の不幸につけ込んで入信を迫るカルト宗教を論破する拠所となるからです。
高橋氏は「前世で悪業を造ったとしても、あの世で修正してこの世に生まれてくるわけだから、前世の悪業の報いがストレートにこの世の人生に出てくることはない。不遇な境遇に生まれてくるのは罰ではなく、本人が修行のために選んだ環境なのである」と言っています(参考⇒ http://cosmo358.blog79.fc2.com/blog-entry-517.html)。
実際、不遇な境遇にある人がカルトに引き込まれて更に不幸な人生になってしまう例は多いのではないでしょうか。カルトにだまされないためにも、「あえて自分で選んで決めた人生」という気概をもって生きる方がよく、苦難の人生にあるからといって、それは修行のために自分で選んだことであり、何かの宗教にすがらなければ救われないというものではない、という考え方が私には画期的であり、新鮮でもあったからなのです。
同じ苦難の人生であっても、罰として捉えて生きるか、自分が選んだ人生かでは、人生の捉え方も違ってくるのではないかと思います。
そして2つめの理由として、自分で人生を選んで生まれてくるのなら、もっといい顔に生まれ、もっと才能のある人間に生まれればよかったな、と私などは正直思っているところではあるんですが、こういう境遇を選んだのは他ならぬ自分なんだと思うことによって、責任を他になすりつけるというような気持ちが薄らぐからであります。
実際のところ、不遇な境遇だからといってそれを親や他人や社会や世の中や神などのせいにしても人生がよくなることはないのですから、スピリチュアル的な考え方をするのもありかなと思っています。
それから、スピリチュアル思想で説く輪廻転生説は「決定論」ではないということです。自分でこの世での環境などを選んで生まれてくるといっても、人生の全てがあらかじめ決定されているわけではなく、環境などは自分で決めてきますが、その中でどのように生きてゆくかは本人の自由意志でどうにでも変わってゆくということです。
その点について江原啓之氏や美輪明宏氏は「宿命は変えられないが、運命は変えられる」と言ってますね。親とか、生まれたときの家庭環境とか、自分の容姿とか(容姿は整形手術で変えられないこともないですが)は変えられないが(宿命)、正しく生きるか犯罪者になるか、勤勉に生きるか怠惰に生きるかなどは本人の意志で変えられる(運命)というわけです。
だから、例えば自分でいわゆる「カルトの子」としての人生を選んだといっても決定論ではないのですから、それは自由意志によって変えて良いということになるわけです。
あの世で自分で選んだからといってあきらめてカルト教団に無理してついてゆく必要はなく、明らかに間違った宗教だと気がついたなら、自由にそこから脱出していいわけです。そういう間違ったものから脱して正しい方へ向かうというのも人生の修行なのでしょうし、自分で正邪を判断して生きる方向を変えるということが修行に他ならないのだと思います。

このような理由から、私はスピリチュアルで説く輪廻転生説を信じるようにしているのです。

生まれ変わりについての考察 (2)

こんばんわ、光です。

スピリチュアルで言う「自分で人生を選んで生まれ変わってくる」という思想を初めて発表したのは誰なのか知りませんが、私がその思想を初めて知ったのは高橋信次氏の著書からでした。
それまで信仰していた家の宗教に疑問を持って以来、世の中のさまざまな思想を知ろうと思い、いろんな方面の思想書を読んでいったのですが、そういう時、たまたま近くの図書館で見つけたのが高橋信次氏の著書だったのです。
その後、ブライアン・ワイス博士の過去世退行催眠療法の本にも、同じく飯田史彦氏による生まれ変わりを過去世退行催眠療法で論じた『生きがいの創造』にも同じようなことが書かれてあり、江原啓之氏も同じことを言ってます。
そして、近頃出版されているスピリチュアル系の本のほとんどが同じことを書いてますし、ネットのスピリチュアル系サイトを見てもやはり同じことを書いてますね。

それは、それが真理だから思想として共通しているのではないかとも思えるのです。
ただ、私は最初その思想を知ったとき、それをなかなか受け入れられませんでした。その理由の1つとして、いくら魂の修行のためとはいえ、わざわざ自分で苦難の人生を選んで生まれてくるだろうかと疑問に思ったからです。ふつう、自分ならもっと良い条件ばかりで安楽な人生に生まれたい、などと思うものではないでしょうか。
そしてもう1つの理由は、自分で選んで決定した人生だというのなら、どんな理不尽な状況の中にあっても自分で決めたんだからそれを我慢し続けなければならないのかと思ったからなんです。
例えば親がカルト教団の信者で、その子供が勝手に入信させられてしまった場合、この世ではその子供本人は自分でカルト教団を選んだわけではないんですが、それもあの世で自分で選んで決めたことだからそのカルト教団の信者として一生我慢してついていかなければならないのか、ということです。
それ以外にも、あるサイトでは、例えば児童虐待されている人の場合、それも自分の魂の向上のための修行であり、虐待している人は魂を向上させてくれている恩人ということになり、そのような思想では児童虐待を正当化してしまう危険性があるのではないかと書いていましたが、確かにそういう見方もできますし、そのような問題点もあることでしょう。
そのように、私は高橋信次氏が説いていた輪廻転生観には当初疑問を持っていて、否定的に考えていたのです。
しかし、やがて高橋氏の説く輪廻転生観を受け入れるようになっていきました。その理由は次回に書きます。

生まれ変わりについての考察

こんばんわ、光です。

今回は輪廻転生、生まれ変わりについて考えてみたいと思います。
スピリチュアル思想では、生まれ変わってくるとき、自分でこの世での人生を選び、自分で人生を計画して生まれてくるといっています。
この世での両親や家族、家庭環境、人生での出来事など、自分の修行にふさわしい人生を自分で選んで計画を立てて生まれてくるそうです。
これは私にとって画期的でしたね。それまで私が抱いていた輪廻転生観というのは、この世での人生は自分では選ぶことができず、神か仏か、あるいは宇宙の法みたいなものによって決められてくるのだと思っていました。
前世で善い行ないをした人はいい人生に生まれ、犯罪など悪事を行なった人は苦難の人生に生まれてきて、それは自分では選べず、そういうように決められて生まれてくるものだと思っていたものです。
世の中は唯物論的傾向が多数を占めているとはいっても、それでも漠然とではあっても、死後も来世があって生まれ変わってくると思っている人も多いようです。そういう人たちも私と同じような考えを持っているのではないかと思います。
また、宗教によっても輪廻転生観には違いがあります。ちなみに私の家の宗派は法華経系の仏教宗派ですが、この宗派では過去世で法華経を信仰していた人はこの世でも法華経に巡り会って幸福な人生になり、過去世で法華経を誹謗(悪口を言う)していた人は今世ではなかなか法華経に巡り会うことができず、不幸な人生になってしまう、などと言っているようです。
しかし、この世での成功者など幸福な人生と思われる人を見ると、法華経信仰とは無関係な生き方をしている人がほとんどです。
そして法華経の信仰者ばかりが特に幸福だというわけでもありません。
私は成長するにつれてその教義の矛盾点に疑問を持つようになっていき、そういう時にスピリチュアル思想を知るようになったのです。
スピリチュアル思想では、自分でこの世の人生を選んで生まれてくると言ってるのですから、私にとってそれは180度の発想の転換とでも言える画期的な考え方だったのです。

続きは次回に書きます。

宗教は必要か (2)

こんばんわ、光です。

前回の続きですが、私が宗教は必ずしも必要ないと思うもう1つの理由を書いておきます。
私が昔、宗教は必要だと思っていたのは、宗教を信じることによって正しい生き方ができるとか悪を抑制できると考えていたからでして、宗教を信じていない無神論者に犯罪者が多いと思っていたのですが、しかし、犯罪者を調べてみると、その中には何らかの宗教の信者も多いという事実が判ってきました。宗教を信仰していても、犯罪を犯してしまう人間も多いということなのです。つまり、宗教を信じるというのは必ずしも悪の抑制、犯罪の抑止力にはなっていないということがわかってきたからなんです。
かえって無神論者の中に品行方正な生き方をしている人もいますし、宗教を信仰しているかしていないかというのは犯罪の有無とは関わりがないと言えます。
また、他に宗教は必ずしも必要ないという理由として、宗教がかえって争いや犯罪や不幸の原因になってしまう場合があるからなんです。
現在、イスラム原理主義武装勢力が世界的に猛威を振るっていますが、昔から宗教の違いが原因で争いが続いているという歴史があります。
そこまでいかなくても、宗教が原因で不幸な人生になってしまう場合も多いものです。特にカルトと呼ばれる宗教団体はいわば犯罪組織あるいは詐欺集団とでも言えるもので、このようなものに関わると幸福になるどころか不幸な人生へと転落していってしまうものです。
たとえ聖者と呼ばれる人が受けた啓示が神からのメッセージで真理であったとしても、それを宗教として組織化し運営しているのはあくまでも人間なのであって、神が直接教団を運営しているわけではありません。
神ならぬ人間が運営しているから間違った方向にも行ってしまったりするのです。
そのような宗教を絶対視する必要はなく、必要性を感じない人は無理して宗教の信者にはならなくてもよいと思っています。

宗教は必要か

こんばんわ、光です。

きょうはスピリチュアルと宗教について考えたいと思います。
スピリチュアルと宗教というとよく似ていますが、厳密には違いもありますね。
確かにどちらも重なる部分もありますが、重ならない部分もあります。
私なりの解釈で言うなら、真理というものがあるなら、スピリチュアルがその基本の部分で、それを人間社会で儀式化・形式化したものが宗教ではないかと思っています。

つまり、釈迦やイエス・キリストなどの聖者と呼ばれている人々が悟った内容はスピリチュアル思想になりますが、それを世俗の人々に教え説き、儀式化し、教団として組織化していったとき宗教になると考えています。
スピリチュアルというのは真理そのものなんですが、それが人に伝えられ、教団として組織化され、後世に遺されてゆく過程で、最初の真理そのものだった思想がこの世での人々の考えが入っていってその内容が形式化したり違う方向に行ってしまったりするのです。
ですから私は宗教は真理そのものではないと考えています。あくまでもこの世で形式化されたものが宗教だと考えています。
では、宗教というものは人間には絶対必要なものなのか。昔の私なら、必要だと答えてましたが、今では必ずしも必要とは思っていません。必要な人には必要ですが、不要な人には必要ないと思っています。
丹波哲郎氏も霊界本で、あの世には宗教というものは存在しないと書いてましたね。この世で仏教なりキリスト教なりイスラム教なりさまざまな宗教の信者であっても、あの世に帰ったら、思想的な考え方が統一されていって、宗教の違いがなくなってゆき、宗教の縄張り意識というものがなくなってゆくと書いていました。
つまり、真理というものにはもともと宗教の違いというものがなく、この世でその真理を説いてゆくときにそれぞれに教えの違いができてきて違う宗教になってしまうということのようです。
私もこの考え方に納得しています。

この続きは次回に書いてゆくことにします。
ではまた。

神についての考察 (2)

こんばんわ、光です。

今回も前回に引き続いて神について考えてみたいと思います。
前回、私は子供の頃は個人的に人格神の存在を信じていたと書きましたが、小学校高学年になった頃からそういう神を信じなくなりました。
というのは、私の家の宗教は仏教系だったので、親の影響から私も仏教的な考え方になっていき、この宇宙は神ではなく法(法則)によって秩序づけられているというように考えるようになっていったからです。
そしてその頃は、キリスト教などで説く宇宙根源の創造神については否定していました。
キリスト教などでは全知全能の神などと言ってるけど、神が全知全能ならなぜ神は悪人を創ったのか? 善人ばかり創ればこの世はもっと良い世の中になっていただろうにとか、神はなぜ地獄を創ったのか? 神が悪人を創っておいてその悪人を落とすための地獄を創るとは、神はあまりに自分勝手すぎるのではないかとか、そんな疑問を持っていました。
しかしその後スピリチュアル思想によって、人間には自由意志が与えられているから人間が悪に染まるのは自己責任であり、地獄も神が創ったのではなく、人間の悪想念によって出来上がった場が地獄と呼ばれるものになったのであり、それも神のせいではない、ということを知るようになったのです。
それ以来私は、神は実在するという考え方になりました。
特に高橋信次氏の思想によって、仏教でいう宇宙の法というものが神に他ならないという考えに到るようになりました。

私が家の宗教(仏教系)を信じていた頃は、キリスト教などは全知全能の神などという子供だましみたいなことを説いているけど、そんな人間じみたものではなく、宇宙の法則によって世界が秩序づけられ動いていると説く仏教の方が優れていると思っていたものですが、では、その宇宙の法というものはどのようにしてできたのかということが仏教では説かれていません。仏教では法というものは元々から存在していたと説いているからです。

結局、「宇宙の法」と呼ぼうと「宇宙意識」と呼ぼうと「神」と呼ぼうと、同じものだと言えます。
高橋氏が説いているように、宇宙・自然には高次の意思があり、それが人間から「神」と呼ばれたり「法」と呼ばれたりしているということでしょう。

もっとも、ではその根源の創造神(宇宙の法)はどのようにしてできたのか、ということはわかりませんが(^_^;)
まあ、私のような凡人にはそこまではわからないのが当然でしょう。これからスピリチュアル思想の研究を進めていってそういうことも知りたいと思っています。