スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

生まれ変わりについての考察 (3)

こんばんわ、光です。

前回の続きですが、私が高橋信次氏の説く輪廻転生説を信じるようになったのは、1つには、身体障害者や母子家庭など厳しい環境に生まれた人に対して「前世で悪業を積んだからそういう人生に生まれたのである。この宗教に入らなければその悪業を消すことはできない」などと人の不幸につけ込んで入信を迫るカルト宗教を論破する拠所となるからです。
高橋氏は「前世で悪業を造ったとしても、あの世で修正してこの世に生まれてくるわけだから、前世の悪業の報いがストレートにこの世の人生に出てくることはない。不遇な境遇に生まれてくるのは罰ではなく、本人が修行のために選んだ環境なのである」と言っています(参考⇒ http://cosmo358.blog79.fc2.com/blog-entry-517.html)。
実際、不遇な境遇にある人がカルトに引き込まれて更に不幸な人生になってしまう例は多いのではないでしょうか。カルトにだまされないためにも、「あえて自分で選んで決めた人生」という気概をもって生きる方がよく、苦難の人生にあるからといって、それは修行のために自分で選んだことであり、何かの宗教にすがらなければ救われないというものではない、という考え方が私には画期的であり、新鮮でもあったからなのです。
同じ苦難の人生であっても、罰として捉えて生きるか、自分が選んだ人生かでは、人生の捉え方も違ってくるのではないかと思います。
そして2つめの理由として、自分で人生を選んで生まれてくるのなら、もっといい顔に生まれ、もっと才能のある人間に生まれればよかったな、と私などは正直思っているところではあるんですが、こういう境遇を選んだのは他ならぬ自分なんだと思うことによって、責任を他になすりつけるというような気持ちが薄らぐからであります。
実際のところ、不遇な境遇だからといってそれを親や他人や社会や世の中や神などのせいにしても人生がよくなることはないのですから、スピリチュアル的な考え方をするのもありかなと思っています。
それから、スピリチュアル思想で説く輪廻転生説は「決定論」ではないということです。自分でこの世での環境などを選んで生まれてくるといっても、人生の全てがあらかじめ決定されているわけではなく、環境などは自分で決めてきますが、その中でどのように生きてゆくかは本人の自由意志でどうにでも変わってゆくということです。
その点について江原啓之氏や美輪明宏氏は「宿命は変えられないが、運命は変えられる」と言ってますね。親とか、生まれたときの家庭環境とか、自分の容姿とか(容姿は整形手術で変えられないこともないですが)は変えられないが(宿命)、正しく生きるか犯罪者になるか、勤勉に生きるか怠惰に生きるかなどは本人の意志で変えられる(運命)というわけです。
だから、例えば自分でいわゆる「カルトの子」としての人生を選んだといっても決定論ではないのですから、それは自由意志によって変えて良いということになるわけです。
あの世で自分で選んだからといってあきらめてカルト教団に無理してついてゆく必要はなく、明らかに間違った宗教だと気がついたなら、自由にそこから脱出していいわけです。そういう間違ったものから脱して正しい方へ向かうというのも人生の修行なのでしょうし、自分で正邪を判断して生きる方向を変えるということが修行に他ならないのだと思います。

このような理由から、私はスピリチュアルで説く輪廻転生説を信じるようにしているのです。