スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

自殺についての考察 (2)

はじめに前回の記事で訂正する箇所があったのでお知らせします。
「自殺しても死の状況によっては地縛霊にならない場合もある」というような記事を書きましたが、その箇所で、江原啓之氏もそのように言っているように書いてしまいましたが、江原氏ではなく隈本確(くまもとあきら)氏の間違いでした。あとでネットで調べてみると江原氏は「自殺者は例外なく自殺したことを後悔し、苦しんでいる」と言っているようでして、私の勘違いだったようです。前回の記事の間違った箇所は書き直しました。訂正してお詫びいたします。

では今回も自殺について考えてみます。
自殺は高橋信次氏や隈本確氏などによれば例外もあるようですが、ほとんどの場合、自殺者は地獄に行くか地縛霊になってしまうようです。自殺する人は死んで苦しみから逃れ自由になりたい安楽になりたいと思ったり消えてなくなりたいと思っているのでしょうけど、自殺したあとにも自分というものが存在し、しかも自由を奪われ苦しいめに遭わされるということです。
ただ、そういう苦しい境遇というのはいつまでも続くというわけではなく、反省し懺悔してゆけばやがて天国へと帰れるそうです。
しかし、問題はその先で、天国に帰れても、次に生まれ変わってくるときは、自殺した人生と同じような人生を選んで生まれてこなければならないそうで、テレビの『オーラの泉』でも美輪明宏さんが「自殺するのは骨折り損のくたびれ儲け」と言ってましたし、江原啓之氏も「道にへばりついてでも地を這ってでも生き抜いたほうが新しい生が待っている」と言ってました。
自殺してもいいことは何もないようですね。私は自殺者が苦しいめに遭わされるのは理不尽だと思ってましたが、そうはいってもそのようになっているのならそれに従わないと仕方ないです。

ところでここで告白しておきますが、実は私も自殺をしかけたことがありました。
小学生の頃、ある日曜日の朝に弟と喧嘩をしてしまい、私が母親からひどく叱られ、それで「弟ばかり可愛がられている」と思ってしまった私は、母が昼前に買い物に行っている間に首を吊ろうと思って2階に上がり、しばらくひもをかける所を探しまわったのち、ドアの上の方にひもをひっかけ、そこへ首を掛けて体を倒すようにして首を吊ろうとしたのです。
しかし、初めはくやしさの勢いで本気で自殺するつもりだったんですが途中で少し興奮が冷めてきて、首をひもにかけたまま躊躇しているうちに、意外に早く母が帰ってきたようで、お菓子を買ってきたから早く食べなさい、と階下から呼ばれたときは正直ホッとしました。
それでお菓子を食べてから自殺しようと思い階下に降りて行ったんですが、お菓子を食べているうちに自殺する気がなくなってしまいました。というより、本気で死ぬ気はなかったのでお菓子を口実に自殺を取りやめたというところでしょう。
それ以後はもう自殺したいという気持ちは起きなくなりました。
子どもの頃のことで他愛ないことであり、本気で自殺しようという気持ちもなかったとはいえ、スピリチュアル思想を知るようになってからは「あのとき自殺しなくてよかったな」と心底思ってます。
危うく次もまた同じような人生に生まれ変わってこなければならないところでした。ピカソビル・ゲイツのような人生なら何度生まれ変わって来てもいいですが、私の今の人生はもう2度といりません。
何よりも自殺すると自由を奪われるというのが最大のマイナス面です。今の不自由な人生から解放されてもそのあと地縛霊になって自由を奪われ苦しめられたんでは死んでも意味がないです。だから自殺にはまったくいいところがないわけです。

たとえ唯物論的に考えても自殺はいいことだとは言えません。唯物論では死ねば意識は消えてなくなり無になるということですが、あとに残された家族や親しい人々が受ける悲しみを思うとそれは悪いことだと言えるでしょう。
それに、自殺した場所によっては、遺族が損害賠償を請求されることもあるそうですから、自殺というのは自分ひとりの問題ではなく、周りにも迷惑をかけてしまう行為なのです。
だから自殺はいずれにしろ、絶対やってはいけないと思っていた方がいいでしょう。