スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

自分で決めてきたことなのかどうなのか

こんばんわ、光です。

今年最初のブログ記事になりますが、今年もよろしくお願い致します。

ところで、このところニュースでもワイドショーでもスキーバスの転落事故について報じられています。

大学生が多数犠牲になっていますが、その人たちを知っている人々からは、優秀な学生で、人間的にもとても良い人たちばかりだったという話が伝えられています。

確かにこの世に必要な人たちが早くあの世に還らなければならなくなってしまったという感慨を抱いてしまいますが、スピリチュアル的にはこのような場合も、初めから当人たちが決めてきた宿命だったんでしょうか、どうなんでしょうか。

この事故の他にも、去年起きた劇団女優殺害事件などのように、夢を抱いて何かに一生懸命取り組んでいて前向きに頑張って生きている人が、何者かに殺されて夢を断たれてしまうということも多いですが、そういう人たちも、その人生は自分が生まれる前に決めてきた人生だったんでしょうか。

その逆に箸にも棒にもかからないようなどうしようもない人間が長々と生きている例もよく目にしますが(私なんかもそうかも知れません)、そういうのを見ていると、本当にスピリチュアル思想でいうように、自分で決めて生まれてきたんだろうかと思ってしまいます。

夢を抱いて前向きに頑張って生きている人が急に理不尽にもこの世の人生を断たれてしまったら、いくら自分で決めてきた人生であっても未練執着が残って成仏できず地縛霊にでもなってしまうのではないかとも思ってしまいます。

そして、いくら夢を持って前向きに生きていても、地縛霊になってしまったんでは何にもならないと思ってしまいます。

そこのところが疑問に思うところです。

進化論について

今日見た『そこまで言っていいんかい』というテレビ番組で、パネリストとして出演している竹田恒泰氏が進化論について批判していました。
そこで、竹田氏は、「進化論では人間は猿から進化したと言ってるが、猿から人間へと進化する中間過程の化石が見つかっていない。
猿から人間に進化したのが真実なら、進化する過程の化石が見つかるはずだ」と批判していましたが、それは高橋信次氏もそう言ってましたね。
少なくとも日本では、一般的に進化論を信じている人が多いと思いますし、私も高橋信次氏の思想に出会うまでは進化論を信じてましたが、今では高橋氏などが説く「人間は最初から人間としてこの世に出現した」というのを個人的には信じてます。
ただ、それを声高に主張するところまではできません。
それは客観的に証明できるようなことではなく、私自身がこの目で見たわけではないからです。
実際のところははっきりわからないというのが実情だからです。
そういったことも、あの世に還ってみないことには真実・真相はわからないのかもしれないですね。
この世を生きている間は、ああだこうだと思うだけで、実際のところは謎のままで終わりそうです。

科学者でも霊の存在を信じる場合

お久しぶりです。
昨日、今年のノーベル賞の授賞式がスウェーデンストックホルムで行われ、医学生理学賞を受賞した大村智氏と物理学賞を受賞した梶田隆章氏にメダルが贈られました。
私はニュースで見ましたが、その中で、授賞式に向かう大村智氏がインタビューに答えていて、亡き妻、文子さんの写真を見せながら、 「(妻も)連れてきました。忘れられませんよ」と語っていました。
また『女性自身』のインタビューには「ノーベル賞は、文子と一緒に頂きます」とも語っていました。
そういう言葉からすると、大村氏は科学者には珍しく霊の存在を信じているようですね。
ガチガチの唯物論者である大槻義彦氏からは「科学者のくせに霊なんか信じてるなんて」といった声が聞こえてきそうですが、科学者と言えども、苦労をかけた亡き妻もきっとどこかで喜んでいるだろうという気持ちになると思います。
まあ、大村氏は真理として亡き妻の霊が存在していると考えているというよりも、単に感傷的な気持ちの表現をしているだけかもしれないですが。
いくら「霊なんか存在しない」と思っている唯物論者であっても、身近な人が亡くなったりしたら、大槻氏のような割り切った考え方ができるんでしょうか。
例えば災害などで近親者が亡くなった場合でも、「霊は存在しないんだから慰霊祭や供養なんかしてもムダだ」と言い切れるかどうかですね。
やはり、唯物論者でも慰霊祭や供養の儀式に参列して亡くなった人が安らかに眠れるようにと祈りたい気持ちになるのではないかと思います。
だから大村氏も研究が認められノーベル賞を受賞できたことで、亡き妻も喜んでいるという気持ちになるんでしょう。
やはりそれが自然な想いであるし、霊は存在すると考える方が自然な気持ちだと思います。


 

早く生まれ変わってくる場合

おはようございます、光です。
私は生まれ変わり、輪廻転生を信じてますが、そのことについて疑問に思ってることを書いてみようと思います。
よく、生まれ変わりの話題とされるニュースで、ある子供が前世を覚えていて、その子供が、自分はどこそこに住んでいるある人物から殺されたと主張しているとして話題になっているとか、ある家に生まれた子供はその家のおじいさんの生まれ変わりだと主張しているとして話題になったとかいうニュースがときどきあるものです。
そして、そういう子供の主張は、単に子供がそう言ってるだけではなく、証拠になるものがあって、それが子供の主張を裏付けているということで真実味を帯びていて話題になっているものです。
実際にそういうことはあるのかもしれないですが、ただ、スピリチュアル思想では普通、死後数百年くらい経ってからこの世にまた生まれ変わってくるといってますが、上に書いた事例だと、前世で殺されて、まだ殺した犯人が生きている間にすぐ生まれ変わってくるということになります。
そんなに早く生まれ変わってくることもあるのでしょうか。
普通、人から殺されたりした場合、殺されたことへの恨み憎しみからあの世にすんなり還れず地縛霊になることが多いようですが、すぐ生まれ変わってくることもあるんでしょうかね?
ただ、非業の死を遂げた人は、この世への未練などから死後早く生まれ変わってくるという話を聞いたこともあるので、あるいはそうなのかもしれないですね。
それから、同じ家系に、たとえば祖父がそこの家の子供として生まれ変わってくるということがあるんでしょうか。
これもスピリチュアル思想では普通、死後また生まれ変わってくるときは、前世とは違う国や人種に生まれてくることが多いようですが、同じ家系でしかもすぐに生まれ変わってくることもあるんでしょうかね。
この世では同じ家系、同じ一族、親族家族であっても、あの世でその家系や家族が同じところに住んでいるというわけではなく、この世で家族であってもあの世に還れば魂の故郷が違っていて皆バラバラになるそうですから、死後また同じ家系に生まれてくるというのは、あり得ることなのでしょうか。
そこのところがよく分からないところではあります。

妖精の骨?

この前見た超常現象のテレビ番組で、妖精の骨が発見されたというのを放送してましたが、スピリチュアル思想では妖精はあの世の自然霊であってこの世の生き物ではないということなので、骨などはないはずなんですが、どうなんでしょう。
人間が作った偽物でないのなら、何かの生物の骨なのかも知れないですが、妖精の骨ではないんじゃないでしょうか。
まあ、この世ではまだまだ分からないことだらけなので結論は下せませんが、妖精の定義からすると違うと思いますね。
まあ、そんなに真剣に考えることではないですが、この世で不思議に思える現象などはこの世を生きている間に真相が分かるということはないと思います。
あの世に還ってからでないと不思議現象の真相は分からないでしょう。
結局この世を生きてる間は謎は謎のままということになりそうです。

守護霊・指導霊は信じない方がよい?

こんばんは、光です。

丹波哲郎氏の本に、守護霊には朝晩のあいさつをするなどコミュニケーションをとっていればよく守ってもらえるだろうと書かれていたので、私も当時はなるべく守護霊とコミュニケーションをとるようにしていたのですが、その後、江原啓之氏がテレビ番組で、守護霊に頼りすぎて自分で努力しないなら守護霊は守ってくれないと言ってるのを見て、そうかもしれないなと思いました。

人は人生がうまくいくようにとか、悪いことが起きないようにという気持ちから何かを信じて頼りたいと思うものです。
それがいろいろな信仰という形になっているのだと思うのですが、守護霊や指導霊の場合は頼っても却って厳しく突き放されるようで、江原啓之氏は自分で努力してこそ守護霊や指導霊が守ってくれるし助けてくれるのだと言っています。
結局、守護霊や指導霊が自分を守ってくれるか助けてくれるのは、信じるか信じないかではなく、自分で努力するかしないかということのようです。
そう言えば、大槻義彦氏や松尾貴史氏や上岡龍太郎氏などはガチガチの唯物論者で霊とかあの世とか生まれ変わりなどを否定し批判してましたが、この人たちの人生は別に悪いことも起きず、それなりに成功の人生を送っているようです。
守護霊など信じず自分自身で努力していったから却って守護霊に守られ指導霊に助けられて人生がうまくいってるということではないでしょうか。
逆に守ってもらおう助けてもらおうと思って、仏壇にたくさん供え物をして先祖供養などを一生懸命やってる人に限って不幸なことが起こったりして人生がうまくいかないものです(実際にそういう人を何人か知っています)。
「神は自ら助くる者を助く」ということわざもあるように、自分で努力しないで頼りすぎてはいけないということなのでしょう。
そういう意味では、大槻氏などのように、「守護霊なんかいない」と思っているぐらいがいいのかもしれません。
ただ、それでも私は自分に守護霊がついているということを実感しています。
いままで私は自転車で道路を走っている時、横の路地から徐行もしないでいきなり車が飛び出してきたりして轢かれそうになったことや、歩道を歩いている時でも、車が歩道に徐行もしないで進入してきて轢かれそうになったことが何度もありますが、その度ケガもしないで助かった体験があります。
それは守護霊に守ってもらえたのだろうと思っていますし、そのように実感しています。
ただ、指導霊については、自分には指導霊はついてないか、ついていても霊格の低い指導霊しかついてないんだろうなと思っています。
指導霊はその人の仕事や才能などの分野で導き助けてくれる霊なのだそうですが、私は未だに自分の才能が花開いたこともなく、自分に向いてないと思う方にばかり人生が進んでしまっているように思えるので、恐らく指導霊から見放されているのではないかと思います(-_-;)
まあ、自分の努力が足りないということなのかもしれませんが(^^ゞ

愛の優先順位についての考察

こんばんは、光です。

スピリチュアル思想では「愛」を最重要な根本のテーマとしています。
「人を愛する」「人に愛を与える」ことこそが人生の全てだと言っています。
その「愛」についてなんですが、私は愛の優先順位について考えていたことがありました。
それは、イエス・キリスト墨子が説いていた「無差別の愛」が最重要なのか、それとも、孔子孟子が説いていた「自分の親や身内を優先した愛」が最重要なのかということです。
孟子は「無差別の愛」を説いていた墨子を「自分の親をないがしろにするものだ」と批判していましたし、墨家側は孟子の思想を「自分の身内だけを愛する差別愛だ」と批判していました。
どちらも一理はあると思いますが、ただ、私は以前は、自分は親によって養われ助けられて成長してきたのだから、まずは自分の親を最第一に愛するべきではないか、また、家族として兄弟と助け合って生きてきたのだから、親に次いで、兄弟などの身内を他人よりも優先して愛するべきではないかと考えてましたので、孔子孟子のいうことが正しいのではないかと思っていました。
以前はそのように考えていたのですが、近頃は考え方が変わってきて、イエス墨子の「自分の家族と他人を差別しない普遍的な無差別の愛」が真理として正しいのではないかと思ってきているところです。
というのも、これもスピリチュアル思想によっているのですが、自分の親や兄弟といっても、あの世での故郷が違う魂がこの世で仮の家族として生まれ合わせていることが多いということなので、その観点から言えば、自分の家族であっても元々は他人と変わらないわけです。
で、あるならば、自分の家族と他人を差別する根拠もないのではないかと思えてきたからなのです。
確かに親や兄弟から助けられてきたということはありますが、他人からも助けられてきているわけですから、そこに優先順位をつけるという差別愛は間違いではないのかと思っているところなのです。
とはいっても、現実にはどうしても家族優先になってしまうものですが。
普遍的な人類愛とか無差別の愛などと大きなことを言う前に、まずは自分の家族を愛せなければ赤の他人も愛せないと言えそうですね。

霊能者が言ってることの違い

こんばんは、光です。

以前に霊能者によって霊界観が違うという記事を書きましたが、それ以外にも霊能者の言ってることにはいろいろと違いがあるものですね。
例えば、美輪明宏さんは「南無妙法蓮華経」の題目が霊を成仏させる力が一番強いから、題目を唱えなさいと言ってましたが、近頃見たあるスピリチュアル系ブログのブログ主さんは「南無妙法蓮華経」では成仏できない、霊を成仏させるには「南無阿弥陀仏」の念仏でないとだめだと書いてました。
また、江原啓之氏は神道系ですね。
このように、それぞれの霊能者によって霊を成仏させる方法などにも違いがあるようです。
なぜ、そんな違いがあるのかとか、どれが本当なのかとも思ってしまいますが、
どれが正しいかどうかというよりも、それぞれに方法が違うというだけなのかもしれません。
まあ、こういう霊能者によって言ってることやってることに違いがあるから唯物論者はいかがわしく思って信じないのかもしれないですね。
確かにそれはあると思います。
そういうことがあるので、やはり1人の霊能者の言ってることの全てを信じるということはしない方がいいと思います。

精霊界での予定

こんばんは、光です。
丹波哲郎氏の霊界本には、人は死んだ後あの世に行ったら、まず精霊界にしばらく滞在して、そこでこの世でのアカを落として素の状態になってからそれぞれの魂の故郷(霊界)に還ってゆくと書いてありましたが、その精霊界に滞在してる間には、会いたいと思っている人(霊)とも会えると書いてありました。
スウェーデンボルグ丹波哲郎氏が言っていた精霊界というのは江原啓之氏などのスピリチュアル思想で言うところのいわゆるサマーランドに相当する所だと思いますが、そこで自分が会いたいと思う人ですでに霊界に還っている人であれば、会いたいと思っただけで、その会いたい人が引き寄せられてすぐ目の前に現われるのだそうです。
私はそれを知ってから、何だかホッとした気分になりました。
というのは、私はこれまでの人生で出会った人で、申し訳ないことをしてしまったと思う人が何人かいまして、謝りたくてもその人たちは今どこにいるのか、まだこの世にいるのかすでにあの世に還っているのかも分からない状態で、そのことがずっと心に引っかかっていて自責の念を持っていました。
そういう時に丹波哲郎氏の霊界本を読み、あの世の精霊界で会いたい人に会えると知り、あの世に還った時、精霊界でその人たちに謝ろうと思ったものです。
もちろん相手がすでにあの世に還っている場合の話ですが、この世でできなかった心残りのことがあの世に還ってできるというのが何だか心の救いというか安堵感になり、霊界についての知識を知って良かったと思っているところです。
まあ、実際にそうなるのかどうかはわかりませんが、私はあの世は確実に存在すると思ってますので、丹波哲郎氏が書いてた通りになるだろうとは思っています。
あと、私が謝りたい人で、まだこの世にいる人に対しては、私が死んだ時、その人の所に行き、夜、相手が眠っている時に相手の夢の中に入って自分の名前を名乗って謝ろうと思っています。
夢の中に入らずにそのまま相手の前に出ると幽霊なので相手を驚かせたり怖がらせてしまうことになるので、夢の中で謝ろうと思っています。
とにかく申し訳ないことをしてしまったと思う相手にはしっかり詫て心残りを完全に払拭して霊界に還りたいと思っています。そうしないと死んでも死に切れないという心情になって成仏できないかもしれないですから。
あの世に還った時のことまであれこれ考えていると、唯物論者からは「死んだ後のことまで予定を立てるなんてムダなことじゃないか」などと笑われると思いますが、私にとってはあの世が存在し、死後はそこへ還るというのは当たり前のことなんです。

魂の年齢

こんばんは、光です。
またまた更新が遅れてしまいました。

以前、『オーラの泉』で江原啓之氏が、魂の年齢ということを言ってました。
この世に生まれてからの年齢ではなく、魂としてこの世に輪廻転生してきた経験の年齢なのだそうです。
この世での輪廻転生の経験が多い魂ほど人格(霊格)が磨かれていくのだそうです。
だからこの世での歳が若いのとか歳取っていることとは関係がなく、若くても魂年齢の高い人もいれば、年寄りなのに魂年齢が幼い人もいるということで、確かに、歳をとっているのに分からず屋な人間がいたり、年が若いのに物分かりがよく立派な人物もいるものですね。
それは魂の年齢、つまりこの世への転生の経験の多い少ないによる違いなのだそうです。
その観点から言うと、うちの家族では、弟の方が魂の年齢では私よりも歳上じゃないかと思いますね(笑)
たとえ小学生であっても大人の私よりも魂の年齢が上という場合も当然あるわけですから、だからこそ、歳が若いからといって見下したりしてはいけないということなんですね。

宇宙が出来る前はどうなっていたのか

こんばんは、光です。

誰でも1度は考えたことがあると思うんですが、
宇宙が出来る前はどうなっていたのかとか、
宇宙の果てはどうなっているのかとか、
神が実在するなら、神はいつから存在するのかとか、
私も子供の頃から考えていたものです。
まあ、考えたからといって分かるものではないんですが、
興味が尽きない事柄なので、ひまがあれば考えたものです。
ちなみに、私が子供の頃考えていたのは、
宇宙の外側は神の世界で、そこに人間と同じような姿をした神様が住んでいて、宇宙を見ているのかな、
と考えたりしたものです。
現代科学でもそういうことはまだ解明されてませんが、
スピリチュアルではどうかというと、神は元々から存在しているとか、
宇宙も最初から存在しているとか、
始まりも終わりもなく、最初から存在している、
といった言い方をしているようです。
物事には始めと終わりがありますから、宇宙も始まりがあり、その前にも始まりがあり、
神が存在するのも始まりがあると思ってしまうんですが、
それはあくまでもこの世の物質世界的な考え方であって、あの世ではこの世的な成り立ちが通用しないのかもしれませんね。

だから、この世を生きている限り、その解明はできないと思います。
宇宙の果てはどうなっているのか、宇宙が出来る前はどうなっていたのか、神が実在する前があったのかどうか、
などという疑問はあの世に還ってからでないと分からないんでしょう。
あの世に還っても分からないかもしれませんが。

霊界観の違い

こんばんは、光です。
ずいぶん更新するのが遅くなってしまいましたが、下書き中だった記事をここで投稿しておきます。

以前にも書きましたが、あの世の世界の描写については、霊能者によってそれぞれ微妙な違いがあります。
大まかには共通しているところがあるんですが、細かいところで違いがあります。
霊界の界層についての呼び名もそれぞれに違いがあります。

江原啓之氏や雲黒斎さんなどが使っているあの世の界層の呼び名は、下層から言うと幽現界・幽界(通称サマーランド)・霊界・神界となります。これはスピリチュアリズムでの正式な分類になっているようです。

それ以外にも高橋信次氏はもっと細かく、魂のレベルによって四次元幽界、五次元霊界、六次元神界、七次元菩薩界、八次元如来界、九次元宇宙界に分かれていると説いていました。

『宗教情報センター』にそれぞれの霊能者・霊界研究家の霊界観の比較表が掲載されていたので、ここに抜粋して転載しておきます。

スウェーデンボルグ

死後の世界は、天界・地獄・精霊界の3つの世界に大別できる。
天界は天国と霊国の2つに分けられ、それぞれ3つの国に分かれている。地獄も3つの国がある。
まず精霊となって精霊界に入る。精霊となった後、霊界に入って永遠の生を送る霊となる。
現世で物欲にまみれて霊的な事柄に開眼しなかった精霊は、類が集まるのと同じように自分の希望に沿って地獄へ行く。
どの霊界に入るかは、生前の報酬や罰としてではなく、生前の霊的な内心が霊界のどの世界に対応するかによって決まる。
霊の生活の目的は、霊的人格の完成である。

丹波哲郎

霊界は7層で、1〜2層が地獄界、3〜5層が霊国、6〜7層が天国で、6層が天界層、7層が天上界。
魂は白光体に包まれ、約50日後に精霊界へ。
精霊界では死んだ近親者に再会できる。
精霊界→三途の川→霊界と進む。
最期の審判はないが、天国(天界層)と地獄もある。
愛に満ちた心の人は天国へ、利己的な心の持ち主は地獄へと自ら進んでいく。
平均120〜130年で転生。
霊界の記憶は消滅する。
人間界は魂が修業する場。人生の目的は魂を作り上げること。
神が命じた修業期間を勝手に短縮した自殺者に霊界は厳しい。


宜保愛子

魂は肉体から抜けて15分ほどで三途の川を渡り、49日を過ぎる頃までは先達の霊(現世で身近だった人、家族などの霊)に導かれて霊界を歩き、その後は一人で旅する。
霊界は基本的に一人で、会いたい人にも会えず、会えても楽しくない。
最期の審判はないが、徳を積んだ人は天国への道を歩める。
地獄とは暗い道を歩き続けること。
天国の道は軽やか。
霊界とは輪廻転生に向かって修業し、歩き続ける場所。
平均50〜100年で転生する。
霊界の記憶は消滅する。
人間は人間、動物は動物に生まれ変わる。
人間としてこの世に生まれてこそ幸せ。
天国への近道を通るには①自殺しない②現世に未練を残さない、など。
生きている人が供養すると霊の歩みが軽くなる。
死後49日経つと守護霊になれる。
真剣な合掌が守護霊を呼ぶ。
自殺者がこの世に戻るのは難しい。


江原啓之

死後の世界は幽現界、幽界、霊界、神界の4つに分かれる。
魂が肉体から離れると幽現界に行く。
先に死んだ家族にも会える。
約49日間のあと幽界→霊界へと進み、最終的には魂の故郷である、古い魂が溶け合っている類魂に帰結する。
やがて類魂の一部を分霊して、再生する。
死後の世界には階層があり、生前の行いによって分けられ、人のために心を砕いた人は高い境地、我欲に生きた人は低い境地に入る。
転生したとき、霊界の記憶を捨てる。
魂は、修行の場を選んで再生する。
目的は神(愛の力)への帰結を目指すため。
誰にでも守護霊がいて、死後の世界でも見守る。
自殺は学びを途中放棄すること、苦しみは死後のほうが重くなる。
現世に未練、執着があると幽霊になる。



◆矢作直樹

先に死んだ人とは再会できる。
霊魂は不滅。神(摂=大いなる力)と霊魂は不離の存在。
良心とは摂理の声。人生の目的のひとつは、利他行為をすること。
天皇は、国民のために祈り、死者の魂を鎮める。


   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *

このように比較して見てみると、宜保愛子さん以外はあの世が霊本来の世界で、魂の故郷という考え方で共通しているようです。
高橋信次氏もあの世が実在界で、この世は仮の世界の現象界という表現をしていました。
宜保愛子さんだけは、あの世は基本的に1人であるとか、会いたい人にも会えないとか、この世に生まれてこそ幸せとか、あの世よりもこの世の方が本来の世界のような表現をしていましたね。
死後四十九日で守護霊になれるというのは、「え、そんな簡単に守護霊になれるのかな?」とも思ってしまいますが。
丹波哲郎氏も、宜保愛子さんの霊視能力は高く評価していたようですが、あの世についてはあまり詳しくないというようなことを言ってましたね。

これだけそれぞれに違いがあると誰の言ってることが本当なのかと思ってしまいますが、スピリチュアル思想の場合(他の宗教関係の場合でもそうですが)、1つの思想をそれだけが正しいと固定的に考えない方がいいようです。
基本的には細部までこだわって考えるより、大まかな捉え方をしていた方が間違いがないように思います。
霊能者もその霊能力が100%正確というわけではないようですから、それを絶対視しない方がよさそうです。
私はあの世が存在するということは100%信じてますが、細かい表現などについては、それを絶対視しないようにしています。
本当にその通りかどうかわからないからです。
細かいことにこだわり過ぎるとかえって真実が見えなくなるからです。

母の心霊体験

こんにちは、光です。

今回も母の心霊体験を書いてみたいと思います。

その当時は私と弟はすでに実家を出てよそで生活していたので、実家には両親だけで住んでいました。
その日の夜は父は1階の部屋で、母は2階の部屋で寝ていたそうです(父のいびきがうるさいので、別々の部屋に寝ていたそうです)。
母が寝ていると船のエンジンのような音がどこからともなく鳴り響き出して、それが朝方までずっと続いていたため母はなかなか眠れず、やっと明け方頃にうつらうつらしていたところ、急に金縛りになって体が動かなくなってしまったというのです。
体は動かなくても意識はあり、ふっと窓を見ると、そこに若い女の幽霊がいたというのです(窓にカーテンはしてなかったそうです)。
女は白い着物を着ていて、あまり長くない髪型で、きれいな顔をしていたそうです。
その若い女幽霊は部屋の中には入ってこなかったそうですが、窓の外から窓ガラスに張り付くような感じで私の母を見ていて、
「恨めしい、殺してやる」と言ったというのです。
私の母は恐怖を感じて「まだ子どもたちは結婚してなくて一人前になってないので、子どもが結婚するまで待ってください!」と必死に頼んだところ、その幽霊はスーッと消えていき、金縛りも解けたそうです。
母はその幽霊の顔を見た時、誰かの顔に似てると思ったそうなんですが、後で考えると、3人の知っている人物に似てると思ったそうです。
その似ている3人というのは、若くして亡くなっている人ばかりで、
1人は私の父の叔母になる人で、若い時に結婚したそうなんですが、結婚後間もなく相手側から一方的に離縁させられてしまい、その後、行方が分からなくなり、未だに生死がはっきりしていません。
母は会ったことはないですが、写真で顔は知っていたそうです。
2人目は私の叔父(私の母の弟)と同棲していた恋人で、私が小さい頃、叔父と2人で私の実家に遊びに来たことがあるそうです。
その人はその後妊娠したそうなんですが、ささいなことで叔父と喧嘩になった時に叔父から腹を蹴られ、それが原因で胎児とともに亡くなってしまったということです。
3人目は母が新婚の頃住んでいた社宅に、やはり新婚で近くに越してきた若い奥さんで、その人はしばらくして全身に激痛が起こるイタイイタイ病になって亡くなってしまったということです。
母は女幽霊の顔を今でもはっきり覚えていると言ってますが、その3人ともに顔が似ているので誰と特定できないと言っています。
ただ、この3人とも非業の死といってもいい亡くなり方をしているようですが、この3人の中の誰であるにしろ私の母が恨みを受けるような筋合いではないです。
それに、もしその3人の中の誰かだとしても、死後すぐ出てこないでかなりの年数が経ってから母のところに現れたのが謎です。
それはともかく、「子どもが結婚するまで待ってください」と頼んだのが相手に通じたのかどうか、その後、その幽霊は2度と現れてないそうで、母も今まで生き永らえています。
ただ、その幽霊を見てからは、夜、寝ていると振動するような感覚が起き、それが心臓に伝わって動悸が激しくなって眠れなくなったそうなんです。
それで別の市に住んでる叔母(母の妹)の家や近くに住んでる伯父(母の兄)の家に泊めてもらったりしていたんですが(自宅以外なら動悸は起きないそうです)、泊めてもらってばかりもいられないので、しばらくして別の家に引っ越したんですが、引っ越してしばらくは何ごともなく夜は眠れていたのが、また振動のようなものが響いてくるようになり、動悸が激しくなって眠れなくなったそうです。
母はいくつかの病院で診てもらったんですが、原因が分からず、とりあえず安定剤を処方してもらってそれをずっと飲んでいました。
私は母の症状は、テレビ番組で見たことがある低周波による障害ではないかと思ってましたが、それだと一緒に住んでる父も同じ症状が出るはずなんですが、父は何ともないということでした。
それがその幽霊による霊障だったのかどうか分かりませんが、長く続いていた母の動悸は数年前にいつの間にか治まったようで、今は寝ていても動悸は起きなくなったそうです。
やっと霊障が解けたのかとも思えますが、それは霊との約束で私たち子どもがまだ結婚してないからかもしれません。
結婚してしまうと霊に母の命を取られてしまいそうで、なかなか結婚できないでいます(まあ、私が結婚しないのはそれだけが理由ではありませんが(^^ゞ)。
母の心霊体験の中でもこの話が1番インパクトのある体験ではないかと思いますが、母の前に現れた女幽霊が誰だったのかは、母があの世に還ってからでないと真相は分からないのかもしれないですね。

夢枕の話

こんにちわ、光です。

親しい人が亡くなった時、夢枕に立つという話はわりによく聞きますが、私の母もそういう体験があると言ってました。
私の母は霊感の強いところがあり、いくつか不思議な体験をしているようなんですが、そういう母が体験した話というのは、小学生の頃に、夜眠っていると、夜明け頃にその頃仲の良かった友達が訪ねてきて、「よそに行かなければならなくなった。さようなら」と別れのあいさつをしてきたそうなんです。
そしてその夢を見てしばらくして、母親(私からすれば祖母)が「友達の〇〇ちゃんが亡くなったそうだよ」と言って起こしに来たそうなんです。
話を聞くと、母の友達は昨日の夜までは何ともなかったのに、夜急病になって明け方頃に急死してしまったということです。
その友達は近所に住んでいて母はよくそこへ遊びに行っていたそうなんですが、そこの母親が朝早く知らせに来たそうなんです。
やはり、親しい人の魂はあいさつに来るものなんですね。その場合、直接霊として出現するのではなく、夢の中に現われて別れのあいさつをするというパターンが多いようです。
私の場合もそれに似たような夢は見たことあります。夢枕と言えるかどうか分かりませんが、10年ほど前に見た夢なんですが、20年近く前に同じ職場にいたMという人がもう1人(そのもう1人は誰なのか分かりませんでした)と一緒に私の家の玄関内に立っていて、私に何かあいさつみたいなことを言っているのです。何を言ってるのかは覚えてませんが、別れのあいさつみたいな感じでした。
それだけの夢なんですが、そのMという人とはわりと親しかったので、もしかすると亡くなったのか、そして魂が別れのあいさつに来たのかと思ったものです。
まあ、昔の友達や知り合いの夢を見たからといって必ずしもその人の魂があいさつに来たと決めつけることはできませんが、そういうことはあるものなんでしょう。

憑依による殺人事件

先月、女子大生が高齢女性を殺害する事件があり、女子大生は「人を殺してみたかった」と言っているそうですが、昨年の女子高生が同級生を殺した事件とよく似てますね。
このような恨みや憎しみではなく金銭目的でもなく、純粋に「人を殺してみたい」という思いによって殺人を犯すというのは「サイコパス」と呼ばれてますが、こういう人間は普段は頭が良かったり(今回の事件の女子大生も去年の事件の女子高生も頭が良くて成績も優れていたそうですが)、特に問題もないように見える生活をしているのに、それが人を殺してみたいという思いを抱いていて、それを実行してしまうというところが理解しがたいところです。
やはりこういう事件を起こす人間というのは霊に憑依されていると考えた方がよさそうです。
よく「心の教育」ということが言われますが、霊に憑依されている人間には心の教育も役に立たないんじゃないでしょうか。
ただ、殺人を犯した女子高生も女子大生も子どもの頃から人を殺したいと思ってたそうですが、そんな子どもの頃から霊に憑依されてしまうというのはどういうことが原因なのかと思ってしまいます。
スピリチュアルでは、一方的に霊に憑依されるということはなく、憑依される人間にも波長同通するだけの思いがあるからだと言われてますが、子どもの頃から悪霊と波長同通するような思いがあったんでしょうか。そこがよくわからないところです。
親の育て方とか生活環境とかの影響もあるとは思いますが、どんな心の教育をしていても霊に憑依されて人を殺してしまうのでは対策も立てようがないという感じはします。
結局本人の気持ちの持ち方、心がけ次第ということなんでしょうか。いまさらですが、何だかこの世は恐ろしいところだなと思ってしまいます。