スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

疑問点

昨日の記事にも書きましたが、愛のある行為を行なってもそれが通じないことは多いと感じてしまいます。
中東の現地人や難民のために医療などの人道支援活動をしている人が過激派に殺害されていますが、人を救うという正しい行為や愛の実践をしている人が殺されてしまうというのは、守護霊はその人を守れなかったといういうことなんでしょうか。
それとも、人を救う行為をしていて殺されてしまうというのもそれも宿命なんでしょうか。
過去世での業によって正しいことをしていても殺されてしまうという宿命になってるんでしょうか。

まあ、スピリチュアル的には、今世だけでは分からない原因というものがあるんだと思いますが、そこのところが何だか釈然としないところでもあります。

悪に愛は通じるのか

ごぶさたしてます、光です。
1カ月以上ブログ更新してませんでしたが、その間、いろいろな事件がありました。
ISIL(イスラム国)については書きたいことがたくさんありますが、あまり批判を書くと狙われそうなので(日本語のブログまでしっかりチェックしてるかどうか分かりませんが)、抑え気味に書いておきたいと思います。
オウム真理教の場合もそうでしたが、宗教の怖さというものが感じられる事件です。
神の名や預言者の名や宗教の名を利用した犯罪集団とは言えますが、そういう神聖なものを利用すればどんな悪行でも正当化できるという怖さがあります。
あんな残虐行為を行なっていて神の許に行けるなどと本気で思ってるのかどうか分かりませんが、それを信じ込ませて自爆テロなどを決行させているところが宗教の名を利用している怖さです。
それだけに、単なる犯罪者よりも悪の度合いが深いのではないでしょうか。

唯物論者からすれば、神が実在するのなら、こんな神の名を利用した悪党たちになぜ天罰を与えないんだと言うところでしょうし、私もそう思うこともありますが、神は人間の所業には直接手を下さないようです。
あくまでも、神が作った法則に則って善悪それぞれにその報いが返ってくるということなのでしょう。しかも、この世ではタイムラグがあるため、悪にもすぐにはその報いが現れないということのようです。そのため、悪が栄え勝ち誇っているように見えてしまうわけで、その点が歯がゆい気持ちにもなるものです。
ここで思うんですが、よく「愛は世界を救う」という言葉を聞きますし、それは真理なのかも知れませんが、ISILのような問答無用という相手には愛とか対話とかは通じないのが現状です。
以前にも、中東で現地人を救うために医療などの人道支援をしていた人々がイスラム過激派に殺害されるという事件が起きていましたが、愛ある行為であってもこのような過激派には愛が通じないという現実があります。
そして、愛による人道支援をしていた人がなぜ殺されなければならないのか、なぜ守られなかったのかという理不尽さも感じます。

そういう点から見ても、ただ「愛は世界を救う」というだけでは世界を救えないという難しさを感じますし、愛の通じない悪には武力行使もやむを得ないのかと思ってしまいます。
その辺のところがよく分からないところではあります。

死んだ時したいこと

こんばんわ、光です。

もう少しすると正月ですが、一休さんの歌に「正月や冥途の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし」というのがあります。
正月が来るたびに年をとって死に近づいていくのだから、正月はめでたくもありめでたくもないということですが、確かに正月がくるたびにそれだけ寿命が近づいていることになります。
死というと私などは(ほとんどの人がそうだとは思いますが)苦しいもの、嫌なもの、悲しいもの、痛いものというイメージをもっていますが、しかしどんなに嫌なものであっても避けて通れないのが死であるわけです。
それで私はスピリチュアル思想を知るようになってからは、死について楽しいイメージをもつようにしているんです。
私は死んだら『千の風になって』のように、まず大空を思う存分飛び回ろうと思ってます。それから瞬間移動して今まで行ったことのない外国に行き、世界中を見て回ってみようと思ってます。
そうすることでこの世の不自由な人生から解放されて自由の身になったことを実感したいと思ってます。
そう考えることによって死に対する苦しみや悲しみのイメージを軽くしようと考えているんです。
そのためにはもちろん絶対に自殺しないようにしなければと思ってます。

では、今年は当ブログの更新はきょうまでにします。

それではよいお年を。

タイムラグについての考察

前回の記事に、この世では善悪の結果がなかなか見えにくいと書きましたが、スピリチュアルでは、それは原因と結果の間にタイムラグ(時間差)があるからだと言っています。
私がそれを初めて知ったのは高橋信次氏の著書からで、近頃では雲黒斎さんのブログでも見ました。
あの世は念の世界なので、思ったことがすぐに現象化して結果が即座に出るそうですが、この世は物質の世界であるため、心で思ったことや言葉にしたことや行動したことがすぐには現象化しないで、結果が出るまでに時間がかかるのだそうです。そういう時間差(タイムラグ)が生じるために、この世では善が負けたように見えたり悪が栄えているように見えるのだということです。

そういうわけで、この世では善を行なっても悪を行なってもその結果がすぐには出ないので、善いことしたのに悪いことしか起こらないとか、犯罪者が逃げおおせたり悪人がのさばったりしているように見えるのでしょう。
そういう世の中を見ていると、つい「神も仏もいない」と思ってしまうものです。そして、清く正しく生きることがバカバカしいと思ってしまうわけなんですが、そこがやはり魂の修行というわけなんでしょう。
結果として良いことが起きなくても善いことをするようにし、悪が栄えているように見えても悪事に手を染めず、犯罪を起こさないようにして生きるということが大事なのでしょう。
それは「引き寄せの法則」とか「プラス想念」などでも同じで、私などは今までいくらプラス想念をしてもなかなか願っていることが実現しないためあきらめたりしていたんですが、やはりあきらめずにプラス想念を続けることが大事なようです。
何というサイト名か忘れましたが、あるスピリチュアルサイトに書いてあったのですが、プラス想念をしていても願っていることがなかなか実現しないのは、前世のカルマのために実現しにくいのだと書いてありました。いつかは実現するのかも知れませんが、前世のカルマのために簡単には夢が実現できないのだそうです。そういう場合、この世では実現できず来世まで待たなければならないということになりそうです。
まあ、それが魂の修行なんでしょうが、この世では確かに忍耐力が必要です。
とにかく結果がすぐ出なくても、いつもプラス想念をするように心がけないといけないようです。

正義は必ず勝つのか?

前回の記事で、この世にユートピアを実現するのは不可能ではないかと書きましたが、その関連で書いておきます。
よく「正義は必ず勝つ」という言葉を聞きますが、これまでの歴史や世の中を見ていると、この世では必ずしも正義が勝っているとは言えないように見えます。それどころか、この世では正義が負けて悪が栄えているようなありさまではないでしょうか。
それについてスピリチュアル思想では、今世では正義が負けて悪が栄えているように見えても、この世だけで結果が出るというわけではなく、あの世に還ってからとか、来世や再来世になって結果が出ることも多く、その時に悪には必ず悪の報いが結果として出る。それによって正義は勝ち、悪は必ず負けるようになっていると言っています。
何回か生まれ変わらなければ結果がわからず、そのような長い期間を経て正義が勝ち悪が負けるということですが、それだと、この世を生きている間に「正義は必ず勝つ」という結果が見えないので、正しい生き方ができにくいという面があります。
悪が勝ち栄えているように見えるため、「清く正しく生きていても何にもならない」という考え方がはびこる危険があります。というか、現にそういう考え方がまかり通っているようにも見えます。
まあ、スピリチュアルでは、そういう正義が負けて悪が栄えているように見える世の中で、どれだけ正しく生きるかということが魂の修行になっているというわけでしょう。
魂の修行というのはなかなかわかりにくくできているものだなと思いますね。この世を生きている間に正義が勝ち悪が滅びるという結果がすぐわかれば一番わかりやすくて納得できるんですが、すぐにはわからないようになっているから不信感を持ったり無力感が出てきたりするわけです。
この世を生きていくコツの1つとしては、ものごとをあまり性急に考えない方が良いということになりそうです。とにかく長い目で見なければならないわけで、この世を生きるにはやはり忍耐力がいるものです。

この世にユートピア実現は可能か?

スピリチュアルでは、私たちがこの世に生まれてくる目的は魂の成長のためであると言っています。また、宗教の多くは、この世に天国のようなユートピア理想社会)を実現するためとも説いています。
高橋信次氏も我々がこの世に生まれる目的は魂の進化成長のためと、この世に理想世界を実現するためと言っていたようです。
確かにそのような理想を持って生きていくのは重要だと思います。ただ、このように書くと批判されるかもしれないですが、私個人の感想としては、この世に天国のような理想社会を実現するのは不可能ではないかと思っています。
というのは、スピリチュアルではこの世は修行の場であり、我々は魂の修行のためにこの世に生まれてきていると言っているわけですから、この世が天国のような理想の世界になってしまったらもはや修行の場ではなくなってしまうからです。
さまざまな問題が渦巻くこの世で悩み苦しみながら生きていくから修行の場になっているのではないでしょうか。

実際のところ、この世の人間社会では大昔から現代に到るまで争いが絶えず続いています。特にイスラム原理主義は世界に拡散し脅威となっています。
また、ユダヤ人とアラブ人などは地球が続く限り憎み続けるんではないかと思えるほどいつまでも争いと憎しみがなくならないようです。
このようなさまざまな問題が山のようにあるこの世に、天国のような理想社会を実現するというのは不可能としか思えないですね。
いつかはこの世に地上の天国が実現される時がくるとしても、その前に地球は滅びているんではないでしょうか。
世界ではなく日本国内だけを見ても、これもまたさまざまな問題がいくらでもあり、理想社会実現には気の遠くなるような道のりを感じます。
そもそも理想社会という意味で使われているユートピアという言葉は「どこにもない国」という意味だそうですから、この世に理想社会を実現するということ自体が不可能なことではないかと思ってしまいます。

まあ、このように書くと「そんなあきらめと絶望感で生きていったらこの世はちっとも良くならないじゃないか!」と批判されるかもしれないですが、私としてもこの世に天国のような世界が実現すれば楽に生きやすくなるわけですから、その方が良いに決まってるんですが、現実には無理ではないかなと思ってしまいます。
それでも、この世に天国のような世界を実現するよう努力して生きることが魂の進化成長になるということでしょうか。
確かに、実現不可能に思えても、良い世の中になるよう努力して生きていかなければならないのでしょう。

臨死体験しておきたかった

こんばんわ、光です。

テレビでも時々臨死体験についての番組があったりしますが、私は臨死体験というと憧れてしまいます。というより、臨死体験しておけば良かったなと思ってしまうのです。
というのは、私の親が言うには、私は生まれて4日目頃に死にかけたことがあるんだそうです。何が原因なのかわかりませんが顔が紫色に変色してぐったりなってしまっていたそうです。
それで両親が近くの医者に連れて行くと、その医者は「これはどうにもならないですね。取りあえず栄養剤を打っておきましょう」といって注射をしたそうです。今から思うとヤブ医者みたいですが、それから3回ほど通院して注射を打ってもらい、また、山を越えたところの町に霊媒者が住んでいるというのを人から聞いて、父が私の産着を持って行ってお祓いみたいなことをしてもらったそうです。
そういうことが効いたのか、その後私は元気になっていって健康に育つようになったそうです。
その話を聞いて、死にかけたのなら自分は臨死体験したのかもしれないなと思っていたのですが、しかし、臨死体験するとどんなに長い期間が経ってもいつまでも鮮明に覚えているものなんだそうです。
それに対して、私は自分が死にかけたことは全く覚えてないですし、その時臨死体験したという記憶も全くありません。
そもそも死にかけたといっても心臓が停止して完全に死の状態になったわけでもないようですから、臨死体験するところまでいかなかったということのようです。
それで今思ってるところなんですが、どうせ死にかけたのなら、完全に死の状態になって臨死体験しておけば良かったなということです。
臨死体験するとその後の人生が大きく変わる人が多いそうですから、私もあの時臨死体験していたら、もっと違った人生になっていたんじゃないかとか思っているところです。

霊界の裏世界について (2)

前回の続きを書いておきます。
前回、霊界の裏世界については高橋信次氏やGLA系教団しか言ってないと書きましたが、他にも同じようなことを言っている霊能者はいるようです。

例えばこちらのブログ
↓  ↓  ↓

http://japan-spiritual.blogspot.jp/2014/08/blog-post_27.html

こちらのブログの管理人さんはGLA系ではないようですが、高橋氏と同じく霊界には裏世界があると書いてますね。
また、江原啓之氏は裏世界について何も言ってないと書きましたが、以前『オーラの泉』で、この世を生きている人にはあの世の自然霊の系統で龍神系とか天狗系とか稲荷系といった系統の霊の人もいるというようなことを言ってましたね。その自然霊系統の霊というのが裏世界の霊ということになるんでしょうか。

ということはやはり高橋信次氏が言っていた裏世界というのはあるのかもしれないですね。

霊界の裏世界について

こんばんわ、光です。
このところ忙しく、ブログを更新する暇がありませんでしたが、やっと一息ついたので新しく記事を書いておきます。


高橋信次氏の思想の中には、霊界には表側の世界と裏側の世界があるというものがあります。高橋氏の思想の影響を受けているいわゆるGLA系教団でもその思想があります。
霊界の表の世界というのは普通にいう天国と地獄の世界ですが、裏世界というのは仙人とか天狗とか河童とかといった念力や超能力を磨いている魂やいわゆる妖怪などと呼ばれている種類の魂が住んでいる世界なのだそうですが、高橋氏やGLA系教団以外の霊能者から裏世界というのは聞かないですね。
江原啓之氏が裏世界のことを言ってるのは聞いたことないですし(魔界のことは言ってたことがありましたが)、雲黒斎さんの『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』にもそういうことは書いてないようですが。

高橋氏の言う裏世界の住人は人間的な情というものがないようですが、では悪霊なのかというとそうでもないようで、善霊とか悪霊とかはっきり分けられない存在のようです。

では、裏世界の住人の魂は表側の魂とは別なのか、それとももともと同じだったのが輪廻転生での過程での魂の傾向性によって裏世界の魂になってしまったのか、そこのところがよく分かりません。

まあ、確かにそう言われてみれば、世の中には念力の修行や超能力を競っている人物もいますし、そういう人物はあるいは裏世界の魂なのかなと思ったりもします。例えば占い師の細木◯子さんなどは裏世界の天狗じゃないかと思ったりもしますね。

類魂についての考察

こんばんわ、光です。

スピリチュアル思想には類魂という考え方があります。類魂はグループ・ソウルとも言われてますが、その類魂について『スピリチュアリズム普及会』の解説を以下に転載しておきます。

霊界ではその人の霊的成長レベルに見合った界層に行くことを述べましたが、その界層の中で、魂の類似性を持った者同士が惹き合い、グループをつくるようになります。“類は類をもって集まる”といったことが現実に起こるのです。そうした霊的レベルの等しい霊の集合グループは、小さなものでは数十人から、大きなものでは数千人にも上る霊たちから成り立っていると言われています。
このように霊界では同じ霊的レベルに達した者同士が集まり、一緒に生活するようになります。そして1つの霊的家族というようなグループをつくります。

この類魂については江原啓之氏は同じ性質の魂の集まりをコップの水に、そのコップの水から一滴の水がこぼれ落ちる様をこの世に生まれてくる1個の魂として譬えてました。雲黒斎さんも『もっとあの世に聞いた、この世の仕組み』で似たようなことを書いていました。

ただ私はこの類魂という考え方が今ひとつ感覚的によくわからないですね。まあ、この世で肉体を持って生きている身であれば、あの世での魂の感覚というのは理解しにくいのは当然とはいえますが。

高橋信次氏は我々個人の魂は本体1,分身5の「六親眷属」というグループによって成り立っていると言ってましたが、これが類魂に当たるようです。ただ、スピリチュアル思想ではグループの構成は6体だけでなく、数十人から数千人になると言っているので、その点に相違点はありますが、恐らく同じことを言っているのだろうと思います。
その点について理解しやすい解説をしてたのが丹波哲郎氏で、霊界本の中で、あの世に還った魂は精霊界にしばらく滞在し、その間に素の状態に戻った霊は自分の魂の故郷へと還っていくそうで、その魂の故郷というのは1つの村になっていて、そこには同じ性質、気質の者ばかりが集まって住んでいるのだと書いていました。この魂の故郷の村というのが類魂のことなんだろうなと今では思っています。これなどはわかりやすい説明でしたね。
ただ、イメージとしてはそういう村に住んでいるように書いてますが、実際はどういう状態で類魂として1つになっているのかというのが感覚的によくわからないところです。

これについてはまた同じテーマで考察してみたいと思います。

業についての考察

この世での苦難の人生は自分で選んだものである、というのがスピリチュアルの思想ですが、なぜ、その苦難の人生を選んだのかという事については種々の理由があるそうで、ひとつには、自分が過去世で人を苦しめるようなことをしたのなら、その苦しめられた相手の気持ちを学ぶためというのがあります(高橋信次氏が言っていたように、過去世での悪業そのものはあの世で修正してくるのでその報いがストレートにこの世に現われるということはないので)。
江原啓之氏はそれに加えて、先祖が犯した悪業を自分が背負ってくることもあるからと言ってましたが、私はそれが納得いかないです。
自業自得果というように、自分が行なったことが原因で、それが自分に返ってくるというのが真理の法則のはずなんですが、それ以外に、自分ではなく先祖が犯した悪の報いを子孫の自分が背負わされるというのが理不尽に思えて納得できないのです。
私は江原氏が言ってることは大概信じているんですが、この点が納得できないところではあります。

差別をなくすスピリチュアル思想

スピリチュアルでは、あの世には国の違いや人種・民族の違いというものはなく、魂がこの世に生まれ変わってくるときは前世のときと同じ国・人種・民族に生まれてくるとは限らないといってます。
もちろん、続けて同じような環境に生まれてくる場合もあるかもしれませんが、これまでとは全然違う環境として違う国や人種・民族に生まれてくる場合もあるのでしょう。
例えば前世ではイギリス人だった人が今世では日本人に生まれ、来世は中国人に生まれてくるというように、国や人種・民族を超えて生まれ変わってくるということです。
その場合、例えば前世が黒人を差別していた白人の人生だった場合は、差別される側の苦悩を学ぶために今世では黒人として差別される人生に生まれ変わってくるなど、人種や民族の立場を変えて生まれ変わってくるということです。
そういう観点からすると、近年問題視されている過激なヘイトスピーチを繰り返して他人種・他民族を差別し排斥している差別主義者などは、来世は立場を逆転して差別される側の人種・民族に生まれ変わってくるということになるんでしょう。
差別主義者は来世の存在など考えたこともなく、また、生まれ変わりを信じているとしても自分が差別される側の人間に生まれるなどとは夢にも思ってないのかもしれませんが、スピリチュアル思想を知れば、人種差別・民族差別はできなくなると思います。
来世では自分が差別される側として生まれてくるかもしれないと思うと、この人生で人を差別できなくなるのではないでしょうか。
そういう意味でも、スピリチュアル思想は人種差別・民族差別などあらゆる差別をなくすために役に立つ思想ではないかと思いますね。

この世での家系

昔、『おもいっきりテレビ』の中の「おもいっきり生電話」のコーナーで、姑から「男の子どもを産め、男の子が生まれないと家系が絶えてしまう」と言われ続けてストレスになっている、という相談の場面がありましたが、大昔ならともかく、近年、家系を重要視する人は少なくなってきているのではないでしょうか。
司会のみのもんたさんも「今どきそんなこと言う人がいるんだねえ」と驚いてましたが、スピリチュアルの立場から言っても、この世での家系にこだわる必要はないようです。
あの世の世界は波長同通の法則によって同じような想いを持っている魂ばかりが同じ場所に集まるようになっているということです。
あの世にはこの世での家族とか家系という集まりはなく、この世では赤の他人であっても同じような想いを持っている魂は同じ所に集まるようになっているようです。
よく、死期に際して、先に亡くなっていた身内の霊などが迎えに来ると言われてますが、それでもあの世に自分の家系の集団があるわけではないようですし、あの世は魂の故郷とも言いますが、その場合でも現世での自分の先祖たちの元へ還るというわけでもないようです。この世での一族や家系はあの世での魂の一族や故郷というわけではなくこの世だけのものということでしょう。
それに、来世生まれ変わってくるときは現世のときと同じ家系に生まれ変わってくるとは限りません(別の家系に生まれ変わってくることが多いと思いますが)。
だから、この世での家とか家系とかいうのはあの世では関係なくなるわけですから、そんなに家とか家系とかを後生大事に考える必要もないわけです。
この世でどんなに由緒正しい名門の家柄であってもあの世に還れば無関係になってしまうわけです。
その点、私の家系はどこの馬の骨とも知れないような家系なので、はじめから家を守るとかいうようなことも考える必要はないので、その点気が楽ではありますが(^_^;)

呪い代行業

先日、テレビを見てたら、呪い代行業者という人物が出演して芸能人と議論している番組を放送してました。
出演していた呪い代行業者は2人で、1人は本業は神職だそうで、もう1人は仏に仕える身といってたので仏教の僧侶、その中でも密教系の僧侶のようでした。
呪い代行業というのは、依頼者に代わって呪いたい相手に呪いをかけるという仕事なんだそうで、代行業者がいうには呪いをかけて全て成功するわけではないが、7割くらいは成功するといってました。
その番組ではゲストの芸能人も批判的な意見をいってましたが、スピリチュアルの面から見ても呪い代行業はアウトでしょう。
本人が呪う場合も代行業者が代わりに呪う場合でも、それは悪の行為になってしまうからです。
「人を呪わば穴2つ」という言葉もあるように、人を呪ったらそれは自分に返ってくるんではないでしょうか。
ましてやその代行業者は神に仕える身であったり仏に仕える身でありながら呪いという神や仏の道に背くことを代行しているわけですから、その罪は重いと思います。
いびられたりいじめられたりしている場合、呪いたい気持ちもわかりますが、多くの宗教でもスピリチュアルでも、呪いは自分に返ってくるといってるんですからやめといた方がいいでしょう。
代行業者がいうには、呪い代行の依頼者の8割以上は女性で、恋愛ごとがほとんどだそうで、それも略奪愛が多いということですが、そういう呪い代行によって好きな相手を奪っても幸せにはなれないでしょうし、結局は不幸になっていくんではないでしょうか。
そのためにもスピリチュアル思想は知っておいた方がいいですね。知らなかったでは済まされないですから。