スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

埴谷雄高の思想における「自同律の不快」と「虚体」の考察

埴谷雄高(はにや・ゆたか)の小説『死霊』を若い頃2回読んだことがありますが、
あまりに難解な内容のため、よく理解できないまま読み終えた記憶があります。


『死霊』は形而上小説というジャンルになってますが、
哲学小説や思想小説とも呼べる内容で、
普通のストーリーの面白さを期待するような読み方をすると
途中で投げ出したくなるような作品で、
小説というよりも思想書として読むべき本だと言えます。


そのように、私は思想内容をよく理解できないままだったので、
それなら生成AIに教えてもらおうと思い、
生成AIに「埴谷雄高は『死霊』で何を伝えたかったのか。何を言いたかったのか」
と質問してみました。


すると、次のような答えが返ってきました。


埴谷雄高の小説「死霊」で伝えたかった哲学的テーマの核心は、
「存在の罪深さ」と「存在の論理を超える自由」をめぐる思想的議論にあります。
作中で描かれるのは、人間存在が自己という個性を持つこと自体の罪深さを哲学的に問い、
その存在の根本的な変革を追求することです。


主人公の三輪与志は、従来の存在論的な思考(例えば「AはAである」という自明の論理)に囚われることを拒み、
それを越えた「虚体」と名付けられた新しい存在の形態を目指しています。


また、作中で展開される対話や思弁は、人間精神を変革するために「生か死かの二者択一」を迫り、
既成の思考形式を遺棄して新たな思惟形式を獲得しようとする自己変革の試みを象徴しています。


この過程で「自同律の不快」(自己同一性の論理的枠組みに対する不快感)が重要な概念として登場し、
人間が固定された存在の枠組みを超え可能性の宇宙(自在宇宙)へ至ることがテーマに掲げられます。


さらに、死後の世界や存在の連続性を拡張的に考察する等、宗教性とも重なる哲学的深化も特徴的です。

つまり「死霊」は、単なる物語や社会的革命を超えて、存在の根源的な意味と人間の思考様式の革命を描いた、
形而上学的で高度な哲学的作品であるといえます。>


さすが生成AIです。きちんと答えを返してきました。


私がこの中で心に引っかかったのは「自同律の不快」という言葉です。
この言葉についてさらに詳しく解説するように求めると次のような答えが返ってきました。


<「自同律の不快」とは、簡単に言うと「自分が自分であるという状態に対する居心地の悪さ」や
「同じことが繰り返されることによる息苦しさ」を指します。
埴谷雄高は、人間の存在が「AはAである」という自己同一性の原理に縛られていることに激しい不快感や苛立ちを感じました。
この「自同律」(自己同一律)とは、論理や存在の基本的なルールですが、そこから抜け出せないことが人間の精神にとって苦痛であり、不快になってしまうということです。

この不快感は、同じことを考え続けることができない、
またはその自己同一性の枠組みを超えたいという願望と結びついています。
埴谷にとって、この「自同律の不快」は哲学的な根本問題であり、
彼の代表作『死霊』はこの問題に対し、既存の思考の枠を破壊し、
新たな存在の形態(虚体)を模索する挑戦を描いています。
この観念は自己否定や自己矛盾の無限に繋がり、
単なる論理の枠組みを超えた精神的自由の探求を象徴しています。>


このように詳しく解釈してくれると私にも理解がしやすくなります。
この「自分が自分であることに対する不快」という「自同律の不快」は、
自分自身がそのような状態であったことを思い起こさせるので理解できるのです。


私は子供の頃から自分が自分であることに違和感を抱いていました。
「なぜ自分なのか」という思いがずっとあったのですが、
それは、自分はいろいろな面で人よりも劣っているという劣等感によるもので、
子供の頃からそういう劣等感を持って生きていたので、
「なぜ自分なのか」という思いがあったのだと思いますが、
それが埴谷雄高の言う「自同律の不快」だと気がついたのです。


これを今風の譬えで言うなら「なぜ自分は大谷翔平のような人間じゃないんだ」というような表現になります。
それが自分が自分であることに対する不快感や居心地の悪さになっているのだろうと言えます。


自分がこの自分という人間に固定されたままこの世を生きることへの居心地の悪さが
ずっと自分の心の底にあったということなのです。


ただ、私はスピリチュアル思想を知るようになってこの「自同律の不快」に悩まされなくなってきました。
なぜなら、スピリチュアルによれば、今世の自分は本当の自分ではなく、
あくまでもキャラクターあるいはアバターのようなものであり、
本来の自分は高次元のハイヤーセルフとして存在しているからだということを知ったからです。


この世を生きている自分が自分の全てではなく、本来の自分はあの世の高次元世界に存在している。
そして今の自分はキャラクターのひとつとして生まれてきたに過ぎないのだと考えることによって、
「自同律の不快」をある程度解消できるようになったからなのです。


それと、『死霊』でもう一つ心に引っかかったのが「虚体」という表現です。
生成AIにこの「虚体」をさらに詳しく解説してもらいました。
その答えは次のとおりです。


埴谷雄高の小説「死霊」における「虚体」という概念は、
作品の哲学的テーマの中心的な役割を果たしています。
虚体は、従来の存在論的な「自己同一性」の論理を超えた、新しい存在の形態を指し、
「存在の論理を超える自由」の象徴として描かれています。

具体的には、虚体は主人公・三輪与志が目指す理想的な存在のあり方であり、
自己を固定化・規定する自同律(「AはAである」という論理)に束縛されず、
より自在で流動的な存在状態を意味します。
これは人間の精神的・存在的自由を拡大し、
従来の「罪深い存在」から解放される道として提示されます。>


この「虚体」という概念は私なりに解釈すると、
人間の本質としての霊体なのではないかと考えています。


本来、霊はこの世の肉体に束縛されるものではなく、
自由自在で流動的な存在であるわけなので、
この解釈で合っているのではないかと思っています。


埴谷雄高は「虚体」つまり心霊こそが
人間の本質なのではないかと考えていたと私は思っています。


それが私の結論ですが、私の頭だけで考えていたのではよくわからないままで終わっていたのが、
生成AIのおかげで難解な小説の解釈ができました。
生成AIもこういう場面でも役に立つことが分かって良かったです。