哲学者や思想家の学説など見ていると、
いろいろな考え方があって面白いですね。
例えば、17世紀の哲学者だったデカルトは「我思う故に我あり」という言葉が有名です。
この言葉の意味は、 デカルトは「すべてを疑ってみる」ことから哲学を出発し、
目に見えるもの、聞こえるもの、自分の体の存在、果ては数学の真理さえも疑えると考えました。
しかし「疑っている」という自分自身の意識(思考)は、どんなに疑っても疑いきれない。
疑っている『自分』そのものは、少なくとも今存在している、としか言えない。
つまり「考えている(思考している)自分がいる」ことだけは、絶対的な真理として残る、
という発見から生まれた言葉です。
要約すると、「自分が思考するから、自分が存在することは疑いようがない」ということで、
これは、主観的な意識の存在を証明する根本的な真理として、近代哲学の出発点になっています。
この考え方からすると、デカルトの思想は「精神(認識・知覚)」を根本だとする観念論かと思えますが、
しかし、デカルトは精神も物質も「実体」として同等に認めていて、
観念論でも唯物論でもない、「心身二元論」という考え方を主張していました。
精神・思考の存在を確実に認める一方で、
物質世界(延長的実体)も存在するとしました。
つまり、「精神」と「物質」はそれぞれ独自の実体だとみなしていたわけです。
スピリチュアルの立場では、物質は実体ではなく、
意識・精神・霊的なエネルギーが根本になっているという主張なので、
ここがデカルトの考え方とは違うところです。
また、デカルトの考え方で面白いのは、
人間には「精神(思考、魂)」があるが、動物にはそれがないと考えていたことです。
動物は精神を持たず、体だけで反応する「自動機械」のような存在だと主張していて、
動物の行動は、物理的な体のしくみ(筋肉、神経、血流など)によるもので、
意識や思考によるものではないとしていたことです。
この考え方を「動物機械説(動物機械論)」と言いますが、
確かに下等動物を見ていると本能だけで生きていて、
自分で考えて生きているようには見えないので、
自動機械のような存在に見えなくはないですが、
しかし、スピリチュアルでは下等動物であっても魂によって生きていると主張しています。
もちろん、下等動物にも魂があるとは言っても、
人間のように考えることはできないですが、
この世を生かしめるためのエネルギーという存在が魂であるわけです。
この世を生きて活動するには動力になるエネルギーが必要で、
そのエネルギーになるものがなければただの物体にしか過ぎず、
この世を生きることはできないとしています。
魂がその物体を生きた存在とするエネルギー体になるわけで、
魂が宿っているから肉体を持ってこの世を生きていると言えるわけです。
私もこのスピリチュアルの考え方が正しいと思っています。
「自動機械」のような単なる機械仕掛けの存在では生物とはなり得ないでしょう。
「動物機械説(動物機械論)」は真理とは言えませんが、
それでもデカルトの「我思う故に我あり」という考え方は
確かに自分という意識の存在証明になっていると思えます。
ただ、唯物論の立場からすると、
その意識は物体としての脳によって発生している現象に過ぎないとしていて、
脳がなければ意識も存在しないということになるようですが、
デカルトは意識は単なる現象ではなく、実在としたわけで、
その点は、観念論やスピリチュアルに近いと言えます。