スピリチュアルを考察するブログ

スピリチュアルについてさまざまに考察してゆくブログです。なお、コメントへの返信が遅れることがありますが、ご容赦くださいませ。

釈迦仏教と大乗仏教の考察

近頃、YouTube古舘伊知郎氏の動画を見ています。
中でも、仏教についての動画を見ています。

古舘氏のチャンネルの動画を見て意外に思ったのは、
古舘氏はスピリチュアル的な考え方を持っているということです。

私のようなスピリチュアルを完全に信じているというところまではいってないようですが、
人は死んだら終わりという考え方ではないようです。

今まで古舘氏はガチガチの唯物論者ではないかと思っていたので、
これは意外でしたね。

 


古舘氏がスピリチュアル的な考え方を持ったのは、
近親者の死に直面したことによることが大きいようですが、
普段、唯物論的な考え方をしている人であっても、

近親者など親しい人の死に直面したら、
たとえ一時的であっても、多くの人がスピリチュアル的な考えを持つのではないかと思います。

そういう場面においても唯物論的考え方を貫き通すことができるのは、
大槻義彦氏ばりの筋金入りの唯物論者くらいのものではないでしょうか。

 


それからもう1つ、古舘氏が仏教にハマっているというのも意外でした。
古舘氏というと政治経済など社会の分野について通暁しているというイメージを持っていたんですが、仏教にハマっているというのが意外でした。
そして仏教についてよく勉強していて、仏教の思想や歴史に通暁しているところも意外でした。

 


ただ、細かいことを言えば、動画で古舘氏は、釈迦が亡くなった時、
弟子の舎利弗たちが釈迦の教えを書き記したというようなことを言ってますが、
舎利弗は釈迦よりも先に亡くなっているので、
釈迦が亡くなった時、舎利弗がその教えを書き記したというのはあり得ないということになります。


そういう細かいところの間違いはありますが、
仏教の思想についてはよく勉強されているという印象があります。

 


その古舘氏は仏教の信者ではないけれども、仏教思想に傾倒していて、
中でも釈迦仏教を推し活しているということですが、
古舘氏が推し活している釈迦仏教というのは初期仏教や原始仏教とも言われており、
経典でいうと阿含経に説かれている釈迦の教えを言います。

 


仏教と一口に言っても、大乗仏教小乗仏教南伝仏教、北伝仏教、
初期仏教、原始仏教、部派仏教、上座部仏教チベット仏教などなど、
いくつもの区分や名称があって混乱してしまいそうですが、
古舘氏が推し活しているという釈迦仏教は初期仏教あるいは原始仏教に区分されるもので、
歴史上の釈迦が実際に説いたとされる教えの仏教ということになります。

 


仏教の思想成立の過程や歴史的過程というのはとても複雑で簡単には解説できず、
この記事で仏教になぜ大乗仏教小乗仏教などの区分があるのかなどということについて解説をしようとしたら、
記事の内容があまりに長くなってしまうので、
その辺のところは割愛します(仏教の思想成立や歴史的過程についてはネットで検索すれば、詳しい解説がすぐ見つかるのでそちらでご覧ください)。

 

 

古舘氏が釈迦仏教に傾倒しているのは、
古舘氏が言っているように、その思想内容が「合理的で科学的でさえある」というところにあるようです。

 

 

古舘氏は「釈迦仏教と大乗仏教、どっちが良い悪いではなく、
どっちが本当の仏教ということではなく、
どっちも素晴らしい教えだ」と言っていて、
大乗仏教も仏教として認めて高く評価していますが、
それでも理詰めで物事を考える古舘氏には、ファンタジー調の大乗仏教よりも
合理的な考え方の釈迦仏教が合っているようで、
だから釈迦仏教を推し活しているのでしょう。

 

 

私の場合は仏教関連書籍を読み漁っていって、
初期仏教・原始仏教としての釈迦仏教を知るようになり、
古舘氏のように、その思想の理詰めによる合理的な思想に傾倒していったものです。

 


そして、大乗経典は釈迦が実際に説いたものではなく、
後世に創作されたものという意味の「大乗非仏説」と言われていたこともあり、
「初期仏教・原始仏教としての釈迦仏教こそ本物の仏教であり、
後世になって現われた大乗仏教はニセモノ仏教だ」と、一時は考えていたことがありました。

 

 

ですがその後、考えが変わり、今は古舘氏のように「大乗仏教も仏教に違いはない」と思っています。


そのように考えが変わった理由としては、ひとつには、古舘氏も言っているように、
「釈迦は諸行無常を説いた。この世にあるものは全て移り変わり変容していく。
それは釈迦が説いた仏教も例外ではない。仏教も変化していくものだ」という考えに至ったからです。


諸行無常なのだから、仏教は初期仏教や原始仏教の釈迦仏教から部派仏教へと変化していき、それから大乗仏教へと変化していったわけです。

 


大乗仏教が興起したのは、それまでの仏教教団が教義の哲学的解釈の研究や部派間の教義解釈を巡っての論争に明け暮れて、衆生救済のための説法教化を行なわなくなったためであり、
それに不満を抱いていた人びとが「釈迦の教えに還れ」という理念のもとに大乗仏教運動を始めたのであり、

そこから考えると大乗仏教が起こったのは必然であり、「起こるべくして起こった」と言えるでしょう。

 

 

それと、もうひとつの考えが変わった理由としては、
スピリチュアルでは大乗仏教にも高級霊が出現していると言っているからです。


「空」の思想を説いた龍樹(ナーガールジュナ)、
唯識思想を確立した無着(アサンガ)、唯識思想を大成した世親(ヴァスバンドゥ)、
一念三千論を説いた天台智顗(てんだいちぎ)、また日本では空海など、
大乗仏教には優れた思想家が生まれていますが、
それらすぐれた大乗仏教の思想家たちもスピリチュアルでは高級霊だと言っているので、
大乗仏教もまたスピリチュアルから見て真理の現われだと言えるわけです。

 


天台智顗の一念三千論は高橋信次氏もスピリチュアルの観点から、
心の法則として引用して強調していました。

そういうわけで、今は大乗仏教も仏教であると考えています。

 


また、別の言い方をするなら、釈迦仏教では大乗仏教にあるような壮大なファンタジー的表現が少なく(全然ないというわけではないですが)、

弟子の「霊は存在するか」とか「あの世はあるのか」といった形而上学的なことに関する質問に対して、
釈迦は「そのようなことは解脱に役立たないから説かない」と言って明らかにしていません。


それは釈迦の教えはあくまでも解脱することを目的として説かれた教えだからなのですが、
思想として考えたら、あの世のことや人間の本質としての霊性について説いていないため、
思想的に完璧とは言えず、不備があると言えるわけです。

 

 

大乗仏教は極楽浄土などのファンタジー的表現が多いですが、
釈迦仏教がそういう形而上学的なことに関して明らかにしていないことを、
大乗仏教があの世に地獄や極楽があるなどという表現で真理としての思想を補ったとも言えるわけです。

そういう観点から考えると、大乗仏教もまた真理として正しいと言えるわけです。

 

最後に、古舘伊知郎氏の動画を参考までに貼っておきます。

www.youtube.com